ここでは旧杉田劇場とアテネ劇場、そしてそこに出演した若き日の美空ひばり(当時は加藤一枝、和枝)に関する情報を書き留めていきます。

No.1 杉田青年団が出演した杉田劇場

 昭和21年(1946)9月16日付の神奈川新聞に掲載された杉田劇場の広告です。

 

9月16日晝夜2回 入替ナシ

戦災者 引揚者 慰問演藝大會 初秋を劃する此の壮擧

杉田青年団演劇 若手連中熱演

 

喜 劇 車夫の代診

時代劇 国定忠治 御存じ山形屋

新 派 名人長治

 

杉田通り・市電湘南共杉田駅

 

と書いてあります。京急のことを当時は「湘南」と呼んでいたようですね。

 

  さて、この杉田青年団ですが、美空ひばりの叔母である西村克子さんが、著書『愛燦燦・ひばり神話の真実』の中で少し書いています。

 ひばりの父、増吉さんが「美空楽団」を作ったとき、ドラムがなかったため杉田青年団の人が持っているのを買いに行った、というのです。当時、杉田の青年団は一つだけだったはずなので、もしかしたらドラムを譲った人も、この劇に登場していたのかもしれませんね。


No.2 昭和23年7月、「四谷怪談」の公演があった

 四谷怪談を公演したのは“好評の雀之助一座”と書かれている。市川雀之助という人が座長の劇団のようだ。

 “好評の”とあるから、当時は有名だったのだろう。

 

 昭和33年の週刊誌によると、一座は裏町歌舞伎と呼ばれていたことがわかった。今でいう大衆演劇みたいなものであろうか。

 昭和35年の週刊誌ではこんな記事も出ている。

 出し物は歌舞伎をアレンジしたものが多く、座員は29人と少ないので、演技の合間には大道具、小道具、囃子方に早変わりするという。こう書くと何やらうらぶれた雰囲気を連想しがちだが、この一座は芝居もしっかりしていて、座長が大見得をきると、客席から「雀サマ!」、「小紅さま!」と声がかかり、タバコやおひねりが投げられるという話を紹介している。

 今、杉田劇場に来られるご利用者様やお客様のなかには、旧杉田劇場でいろいろ演劇を観たよ、という方が結構いらっしゃる。

 先日、ギャラリーを借りて絵画展をなさっていたグループの中に、旧杉田劇場の内部構造をしっかりと覚えている方がおられた。雀之助や市川門三郎の話がバンバン出てくるのだが、その中に「四谷怪談」を観たという話があった。


No.3 昭和23年9月、杉田劇場で映画大会が行われた

 昭和23年9月7日の神奈川新聞に載った映画演劇の案内。戦後間もないころは演劇が主体であった劇場案内だが、この時代になってくると、あちこちで映画の上映が増えてきた。

 すべての新聞記事を確認したわけではないので、確かなことは言えないが、手持ちの記事だけからいえば、これが杉田劇場での最初の映画上映だったかもしれない。

 昭和21年4月、6月~8月、12月号、および23年8月号が図書館では欠号だったので、もしかしたら、この中に映画上映の広告が載っていた可能性も大いにあるのだが。

 上映されたのは9月7日から9日の3日間。ただしトーキーではなく、“昔懐かしの無声映画大会”となっている。

 3本立てで1本目が「滝の白糸」だ。戦前戦後を通じいくたびか映画化された泉鏡花の名作であるが、昭和12年以降はトーキーなので、これは昭和8年の無声映画かもしれない。

 となると出演者は入江たか子、岡田時彦など、そうそうたるメンバーである。

 2本目は沢正の国定忠治。沢正というのは新国劇の沢田正二郎のことで、Wikipediaによると彼が主演した映画「国定忠治」は大正14年の作品である。

 3本目はマンガ弱虫珍戦組。これもWikipediaによると、制作・監督は漫画家の市川崑で、昭和10年に公開されたアニメ映画である。上映時間約15分。

 端の方に映画説明と書かれているのは弁士。活字がつぶれており判読ができないが、谷天郎と竹本○○と読める。後者は竹本嘯虎のようである。

 どんな映画だったのか、観てみたいものである。


No.4 昭和21年4月10日に掲載された杉田劇場の広告

 左の画像は昭和21年4月10日の神奈川新聞に掲載された広告です。

 まず、目につくのは劇場名の前の「新設」という文字。このことによって、杉田劇場は昭和21年(1946)4月の少し前に造られたことが分かります。どのくらい前なのか、普通に考えれば2月、3月あたりなのかもしれませんが、残念ながら当時の新聞には劇場オープンの記事も広告も見当たりません。

 杉田劇場の経営者・高田菊彌氏の甥で同劇場の社員だった片山茂氏の話では、1月にオープンしたといいます。開場から3か月も経っているのに「新設」というのも妙な感じがしますが、4月10日に初めて新聞紙上に登場したのですから、わざわざ「新設」とつけたのかもしれません。

 

 この時のメインは暁第一劇団。これは大高ヨシヲが座長の劇団でした。特別出演はミソラ楽団で、熱血ノ舞台とされています。加藤和枝(のちの美空一枝、美空ひばり)が杉田劇場の舞台に立ったことは確かな事実ですが、それがいつだったのかは不確定です。しかし、彼女はミソラ楽団とセットで出演していますので、おそらくこの4月9日を初日とする「三の替」興業時にも歌っていたに違いありません。

 ここで注目したいのは「熱血ノ舞台」という言葉。これは初登場とは思えないような書き方です。「二ノ替」か「一ノ替」、あるいは3月あたりで何回か出演していたのではないでしょうか。

 美空ひばりが、いつ、どこで舞台に立ち始めたのかは諸説あって、よく分かっていません。ここでは、当時の新聞広告などからその辺を突き止めていきたいと思います。


No.5 昭和21年4月13日に掲載された杉田劇場の広告

 4月10日に続いて掲載された杉田劇場の広告。「好評 四の替 十三日初日」というカコミ文字のほかに、「四日毎ニ狂言差替上演」と書かれています。今回の上演予告は昭和21年4月13日から16日までのものですが、前回の広告と違うのはミソラ楽団の扱い方です。

 三の替では大高ヨシオ一座暁第一劇団が、新舞踊、喜劇、時代劇と3本立てで公演し、そこにミソラ楽団が特別出演するというふうに読めます。

 ところが今回の四の替では、「家族」と「浮名の銀平」の2本立てで、ミソラ楽団はその間に入り、合わせて3本立てとなっています。

 三の替に登場した楽団が好評だったので、格上げしたような形になっています。しかもミソラ楽団という文字が2カ所に書かれています。

 さらに、この楽団がどういう演奏をするのかという情報も、小見出しながら付け加えられるようになったのです。彼らは民謡と軽音楽をやったようですね。

 

 現在の杉田劇場には、旧杉田劇場に貼られていたポスターの原寸大コピーが2枚展示されています。1枚は大高ヨシオ一座とミソラ楽団の名前、もう1枚は大高ヨシオ一座と美空楽団のほかに美空一枝(のちのひばり)の名前が書かれています。

 残念なのは、この2枚がいつの公演だったのか、日付が記載されていないこと。ただ、杉田劇場で働いていた片山さんのお話では、昭和21年3月か4月ということでした。

 杉田劇場では4月16日までミソラ楽団が出演していたことが分かりましたが、その後は誰が出ていたのか。

 さらに広告を調べていくと、4月21日は浪曲、22日~24日は大高ヨシオ一座、25日~30日はおかめ座という公演でした。

 その後も、近江二郎、森野五郎とつづき、ミソラ楽団の名は出てきません。

 ということは、あのポスターに書かれた興行は昭和21年4月の一の替、二の替だったのかもしれません。あるいは、3月だったのか・・・・・・。

 次回はそのポスターについて書いてみたいと思います。


No.6 昭和21年3月頃と思われるポスター

 これは、旧杉田劇場を経営していた高田菊弥の甥、片山茂さんから寄贈していただいたポスターである。時代劇「涙雨五千両」という劇をネットで検索すると、2件ヒットした。一つは「近代歌舞伎年表京都編別巻(昭和18年~22年)」に掲載されている。もう一つは「近代文学研究叢書」。どちらも演目として載っているだけなので、詳しい内容は分からない。しかし、このような書籍で扱われているのだから、おそらく歌舞伎の一つなのだろう。

 配役の中に太字で書かれている大高ヨシヲというのが座長で、当時は人気の一座だったようだ。演出の大江三郎というのは芳松役で出ている役者と同一人物であろう。

 ここで一つ、気になる人物が浮上してくる。風穴の大助役の宮田菊弥である。「宮」と「高」はよく似ている。下の名前は高田菊弥と同じ。芝居好きだった小屋主が宮田菊弥の芸名で自ら出演していたと考えるのも面白い。

 


No.7 昭和21年4月頃と思われる旧杉田劇場のポスター

 これも片山茂さんからいただいたポスター。昭和21年4月頃のものだというが、正確な日は分からない。No.6で掲載したポスターに登場するミソラ楽団の表示が、こちらではずいぶん格が上がったような書き方である。

 まず、「ミソラ」が「美空」に変化している。そして楽団名を赤字で強調。さらにメンバーが一人ひとり、青字で紹介されているのだ。そんなことから、こちらのポスターの方がNo.6のものより後に作られたと考えてよいだろう。

 次に問題となるのは、No.4とNo.5で紹介した新聞広告と、片山さんから寄贈されたポスターの関係である。4月10日付の広告に載った公演は4月9日から12日まで、4月13日付の広告に載ったのは4月13日から16日までのはず。

 「ミソラ楽団」と「美空楽団」の違いを考慮して眺めると、どうもNo.6⇒NO.4⇒No.5⇒No.7の順に登場した思われる。


No.8 昭和21年4月21日の広告 浪曲の夕に春日井梅鶯が登場

 昭和21年4月13日の広告(No.5参照)は、暁第一劇団大高ヨシオ一座熱血の舞台と題して、四の替りが13日から始まることを伝えている。三の替りが9日初日であったことから計算すると、演目は4日ごとに入れ替えていたことが分かる。ということで、一の替りが4月1日から4日まで、二の替りが5日から8日までとなり、四の替りは13日から16日までとなる。

 その後の17日から20日までについては、広告が発見できなかったため、だれが出演したのかは不明。そして4月21日に「浪曲の夕」とのタイトルをつけた広告が掲載され、その日限りであるが春日井梅鶯が登場することを伝えている。

 

 浪界随一の美聲を誇る人氣王 久しぶりに聞く名調子

 

 当時、浪曲界で有名だったと思われる春日井梅鶯、どんな人物であったのか。

 Wikipediaによると1905年(明治38年)に生まれ1974年(昭和49年)に亡くなっている。14歳の時に旅廻り専門の浪曲師、春日井梅吉に入門。東海林太郎のヒット曲「赤城の子守唄」を脚色した浪曲を演じて一躍スターダムにのし上がったという。

 どんな節回しだったのか、ちょっと聴いてみよう。

 戦争が終わって8か月。まだまだ娯楽の少なかった時代である。こういうのを聴くため杉田劇場に大勢のお客さんが殺到したと思われる。

 春日井梅鶯の公演はこの日だけで終わり、翌22日から暁第一劇団大高ヨシオ一座が上演することが予告されている。

 


No.9 昭和21年4月25日の広告 浅草の人氣王 横濱初公演

 昭和21年4月25日の広告によると、浅草で人気を博していた劇壇(団)「おかめ座」が横浜で初公演をするという。その劇場が旧杉田劇場だった。

 劇団名の横には「三木歌子と其楽団」ということも書かれている。楽団と一緒に横浜へやって来たようだが、BGMを担当したのだろうか。

 

 演目は・・・

①春は天窓に

②昨今与太者譚

③フクチャン暴れる

 となっている。

 

 この劇団と楽団がどんな団体であったのか、インターネットで調べてみたが、まったく分からない。タイトルから考えると、現代劇とか明朗劇といったジャンルだったのだろう。

 広告が出たのは4月25日であるが、実際の公演はこのあとになる。25、26日は爆笑演芸大会となっているので、どこか他の団体が出演したようだ。

 

 4月27日に旧杉田劇場は再び広告を打っている。それによると、「おかめ座」の公演は4月27日から4日間となっている。記載されている演目は25日に出た広告と変わらない。

 

 ただ、大きく違うのは、「慰問、巡業御引受ケ致シマス」という一文と、杉田劇場の前にFT興行商社の名称とFTというロゴマークが加わっていることだ。

 この興行商社が慰問や巡業のマネージメントを行っていたと思われる。

 

 FTとは、なにかの頭文字なのか、このへんに関してはまだまだ調査が必要だが、はたして知っている方はいるのだろうか……。


No.10 昭和21年3月23日 弘明寺の「銀星座」開館

 旧杉田劇場がオープンしたのは昭和21年1月であったが、それから3か月後に、“横浜最初の演劇演芸の大衆劇場”と銘打って「銀星座」が開場。“横浜最初”というのは杉田劇場なのだが、杉田はオープンの広告も出していなかったので、銀星座に横浜初を名乗られてしまったようだ。

 こけら落しには近江二郎劇団が出演している。

No.11 昭和21年4月23日 「銀星座」に再び近江二郎が

 神奈川新聞社発行の『時代を拓いた女たち』という本の中で、横浜市会議員の田野井一雄氏がこんな証言をしている。

「上大岡の風呂屋の風呂の上に板をはって、ひばりちゃんが歌ったの、覚えているんですよ。入りきらない人だかりだった」

 その頃、のちに美空ひばりとなる加藤和枝は弘明寺の銀星座、上大岡の大見劇場、戸部の横浜復興会館などで歌っていたという。



No.12 昭和21年5月10日の広告 森野五郎大一座

 戦災後濱初公演とある。森野五郎という人は明治27年生まれ。Wikipediaによると、サイレント期の時代劇スターとして活躍し、多くの作品に主演したそうである。

 昭和4年に映画界を離れ森野五郎劇団を結成したというから、戦前には長いこと演劇界で活動してき一座のようだ。戦後再び公演を行うようになり、横浜で初めて登場したのが、この杉田劇場だった。

 

No.13 昭和21年5月31日の広告 お好み有名会

 お好み有名会と題して、講談、落語、浪曲界の有名演者を招いている。神田ろ山(初代)というのは講釈師で3代目神田伯山の弟子。「次郎長伝」や「吉良の仁吉」を得意とした。杉田劇場に出演した4日後に、56歳という若さで亡くなっている。

 このとき出演した林家正蔵は7代目である。その息子が「どうもすいません」で一世を風靡した林家三平。

 木村松太郎は浪曲師。門下に木村派最後の一人、木村勝千代がいる。

 この日の広告によると、翌日から市川門三郎が登場することになっている。



No.12 昭和21年6月1日の広告 市川門三郎が初登場!

 前日に予告が出ていたとおり、東京若手歌舞伎の市川門三郎一座が6月1日から公演することになった。久々にお目見えする歌舞伎十八番ものと銘打ち、***心中、切られ与三郎が上演される予定だ。これから杉田劇場とは長い付き合いになる。

 どんな役者だったのか、インタネットで調べてみると、「戦中から戦後にかけて小芝居一座の座頭として各地の劇場に出演。関東・東京近郊では人気者だった。昭和38年1月から大歌舞伎に復帰。昭和40年に師八代目市川團蔵に望まれて三代目市川白蔵を名乗った」とある。

No.13 昭和21年6月19日の広告 三門博 遂に来る

 広告左側は左右に分かれており、左側は翌20日からの市川門三郎一座の案内である。そこに添えられている「大好評続演中の…」という見出しから考えて、この一座は6月1日に初登場してから、ずっと出演していたのかもしれない。

 右側は「キングレコード専属 観音経の三門博 遂に来る」と浪曲の名人が紹介されている。インターネットで調べてみると、明治40年に生まれ平成10年に亡くなっている昭和の浪曲師。戦中に出した「唄入り観音経」が空前の大ヒットをし、戦後も長らくヒットを続けたそうだ。ちなみに、どんな感じなのか聞いてみようか。

三門博 口演 唄入り観音経 ←クリック



No.14 旧杉田劇場の経営者・高田菊弥のナゾ

 このポスターは昭和21年3月か4月頃、旧杉田劇場に貼られていたものである。

 時代劇「嫌われた伊太郎」と題されており、役者の名前がすべて記載されている。

 主役は座長の大高ヨシヲで演出は座員の大江三郎。ここでは、島の勘太郎役の宮田菊弥という人物に注目したい。この名前を見てすぐに思い浮かぶのは高田菊弥だ。名前が酷似している。

 違いは「高」と「宮」。この漢字も見た目、よく似ている。これは偶然なのか。この役者、もしかしたら高田菊弥そのものだったのではないだろうか。

 もう一枚のポスター「時代劇 涙雨五千両」にも宮田菊弥が掲載されている。今となっては確かめようがないのだが、高田菊弥の芸名が宮田菊弥だったような気がしてならない。

No.15 磯子館とはどんな施設だったのか

 これは、昭和21年3月5日の神奈川新聞に掲載された広告である。

 政党の創立準備会が、結成大会を開催するという告知だが、どんな政党だったのか、インターネットを検索しても何も手がかりが得られない。

 戦後、似たような名前で改進党というのがあったが、これは昭和27年から29年に存在していたので、別物であろう。この日本改進党創立準備会の委員長・長谷巌という人は、長谷鉄工所とアテネ劇場の経営者と同一人物と思われる。

 会場となった「磯子館」というのは、どこにあったのだろうか。磯子町で市電「浜」下車とあるので、アテネ劇場の近くだったのだろうか。それともアテネ劇場の前身だったのか……。



No.16 再び市川門三郎の公演

 昭和21年6月1日に初登場した市川門三郎。その後、確認できた広告を見る限り、杉田劇場にはしばらく出演せず、この広告に掲載された7月13日からの公演が二度目だったと思われる。

 当時の杉田劇場が毎回、広告を出していたかどうかは不明なので、正確な所は分からないが……。

 市川門三郎は東京若手歌舞伎として知られていたようである。この時の演目は「弥次喜多」だった。昼の12時に開場して入れ替えなし。海辺の涼しい劇場で観劇できることを宣伝している。