いそご文化資源発掘隊2023(3)



第61回いそご文化資源発掘隊 『赤い靴』と『青い目の人形』パート2 ~赤い靴、異国の地へ~

(2023年5月17日開催) 


第1部

 まずは『青い目の人形』『赤い靴』の作者について。作詞は野口雨情で本名は英吉。明治15年5月29日に今の北茨城市磯原で生まれた。

 野口家は室町時代の武将、楠木正季の末裔にあたるとされている。父の死により家督を継ぎ、半ば政略結婚の形で所帯を持った雨情だが、詩人としての夢があきらめきれず出奔。

 その後、童謡の作詞で多くの名作を残した彼は北原白秋、西條八十と並び「童謡界の三大詩人」と呼ばれた。

作曲者は本居長世で明治18年4月4日、東京府下谷区(現在の東京都台東区)御徒町にて生まれた。江戸時代後期に国学者としてその名を遺した本居長世の子孫である。長世も国学者になることを期待されたが、彼は音楽家として生きていく道を選び東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)に入学。ピアニストとして活動をし始めた矢先、脳溢血を患い、後遺症による右手指の障害でその道を断たれた。その後、作曲家として童謡を中心に様々な作品を世に生み出した。



これは雑誌「金の船」大正10年12月号。『青いの人形』が掲載されたときのもの。雨情と長世のコンビはこれに先駆け、大正9年3月号にて『葱坊主』という作品を共作しているのだが、その評判は今一つで、その後、同年9月号で発表した『十五夜お月さん』のヒットで勢いづいたところでの本作品発表となった。今回のイベントタイトルの「青いの人形」という表記だが、先の目次とは異なりこちらの初版楽譜では「」の字となっている。

 その後、雨情が書いた童謠集『靑いの人形』(金の星社)大正13年6月1日発行の際に「」の字で書いたことで、現代ではその表記がスタンダードになっているのだが、小松耕輔編『世界音樂全集 第11巻 日本童謠曲集』昭和5年1月15日発行(春秋社)では再び「」で表記されている。



 さらにこの楽譜、拍子が4分の2拍子、現在は4分の4拍子に変更されている。大正11年5月15日発行の『本居長世作曲 新作童謠』第5集の楽譜で拍子が代わったようだ。

この改訂により、2拍子が生む快活さよりも、4拍子の息の長さによるメロディの流れが強調されたものになった。

 この図のように、本来4分の2拍子のリズムの強さは1拍目が「強」、2拍目が「弱」となる。瀬戸口藤吉の「軍艦行進曲」などがその快活な特徴を顕著に表している。

それに対し、4分の4拍子は1拍目が「強」、2拍目が「弱」、3拍目は「中強」、4拍目が「弱」と、より息の長い歌謡的なメロディに効果的な拍子といえる。この変更によって、中間部のホ短調へ転調する箇所がさらに哀切を感じる音楽となるのが印象的である。

 先に述べた『本居長世作曲 新作童謠』第5集なのだが、この2小節の前奏が、池田小百合さんという方のHP「なっとく童謡・唱歌」によると、J.S.バッハの「トリオ・ソナタ第6番 BWV530」の第1楽章冒頭をそのまま引用したものとの記載がある。実際聴いてみたところ、2小節目の3連符以外は、ほぼそのまんまである。とはいえ、彼が当時、ずば抜けて西洋音楽への造詣と理解が深かった人物だということが窺える仕事である。



 さて、ここで今回の本題である「幻の歌詞」のお話となる。まずは『青い目の人形』から…この画像は、野口雨情直筆の『青い目の人形』草稿で、雨情の息子の野口存彌さんが所蔵していたもの。

実は当初の曲名も、『アメリカ人形』というのが浮かんだようで、こちらが消されて「青い目の」と横に書き換えられている。

 また、「セルロイド」も「セルロイト」と書かれている。これは恐らく、この歌詞が書かれた当時はそのような発音だったのではないかと推察されるが、のちに「セルロイド」へ修正された。

これは誤字というよりは、当時の庶民的な言い回しが「セルロイト」として定着していたのではないか、という推察がある。藤田圭雄(ふじた・たまお)さんの名著『童謡の散歩道』では、大正時代はデパートがデバート、エレヴェーターがエベレーターと呼ばれていたことを例に、セルロイドもそのように呼ばれていたのでは、と

いう説を提唱している。

 そして、現在の歌詞では「いっぱいなみだを~」とされている箇所は「涙を一杯」になっている。

 また、「私は言葉が分からない」と「迷子になったらなんとしょう」が分かれてカッコ閉じされており、現在のものは「私は~なんとしょう」までひとつのカッコでくくってある。

 一番の発見は完全に削除された歌詞のアイデア、「お家の造りも 違つてる お衣裳の形も ちがつてる」…異国における人形の哀しみを強調したかったのだと思う。

 実際は現在の歌詞である「私は言葉が分からない~」と、どちらを採用しようか迷ったのではないかと考えられる。

 最後は「やさしい日本の嬢ちゃんよ~」が、当初は「赤ちゃん」だったこと…これは、対象となる人形の持ち主の世代イメージを再考したものであろう。

 実際に書き連ねてみると、このような形になる。これはこれで、意味がはっきり分かるものと感じられる。ただ、そのまま使うと節回しが冗長になり、様式的な美しさは損なわれるといえる。



 こちらは平成8年11月1日の東京新聞の記事。

 それによると、国語学者の金田一晴彦さん(実は若い頃、作曲を本居長世に師事)が、『赤い靴』の4番の歌い方が現在と違っていた点を指摘し、本居三姉妹の三女である若葉さんも肯定的な意見を述べている。

 

 こちらは本居長世の自筆譜。確かに自筆譜では「いまでーは」になっている。

 ちなみに大正13年4月23日発行 『金の星童謠曲譜第四輯 赤い靴』から、「いーまではー」と楽譜に記載されていた。

 以後に出版された楽譜もそれを踏襲したもので、現在では定着している。決して本居若葉さんの意見が正しいとも思えず、楽譜として出版されたということは作曲者による変更が入ったと考えるのが自然である。



 こちらが「幻の歌詞」…縦線で消されているが、5番は「生まれた 日本が 恋しくて 青い海 眺めて いるんだろう」、6番は「生まれた 日本が 恋しくば 異人さんに頼んで 帰ってこ」。

 5番は現在の4番同様、第三者が赤い靴の女の子のことを想う視点が感じられるが、6番については赤い靴はいてた女の子の視点にやや近づいた印象で、文字通り「生まれた日本が恋しいのなら、異人さんに頼んで帰ってこよう」といったニュアンスがはっきり浮かんでいる。

 そこには希望とも、叶わぬ夢とも捉えることが出来る二重の意味が感じ取られるが、童謡として考えた場合はやや難解な印象も出てくるので、最終的には不採用だったのかもしれない。

 

発掘隊特別ステージ

「赤い靴はいてた女の子像」と共に海を渡った声

 

ソプラノ:田島 実季

(二期会 準会員/元赤い靴ジュニアコーラス団員)

ピアノ:中村 牧(杉田劇場 館長)

 

 第2部の前に特別ステージを用意した。アメリカ・サンディエゴの「赤い靴はいてた女の子像」除幕式の際、その場にいらした田島実季さんをお招きし、歌を披露していただいた。

 田島さんは赤い靴ジュニアコーラス出身、現在は二期会の準会員として、英米歌曲を得意レパートリーとして活躍中。

まず、1曲目は『赤い靴』。続いて2曲目は『青い眼の人形』。

最後の曲は、アメリカ人にとっては大変重要な愛国歌、『アメリカ・ザ・ビューティフル』。


その他、『赤い靴』には2か所の歌詞変更がある。

 

当日はコンピューターで作成した合成音源データを使用して、

『青い眼の人形』『赤い靴』の"演奏"を行った。

 

 

 

『赤い靴』

『青い眼の人形』

作詞:野口 雨情/作曲:本居 長世

 

『アメリカ・ザ・ビューティフル』

 

 

ソプラノ:田島 実季

ピアノ:中村 牧



第2部

 第2部はゲストに赤い靴記念文化事業団の団長、松永春さんをお迎えし、みなと横浜のシンボルといえる「赤い靴はいてた女の子像」の建立にまつわるエピソードをお伺いした。

松永 みなさん、こんにちは。松永春でございます。

 私は14歳から16歳まで陸軍少年飛行学校にいました。その頃は日本にいてもどうせ死ぬんだから、それなら飛行機乗りになろうと思っていたのです。

 2年間学んで、やっと飛行機に乗れることになったら、日本には練習機が1機もありませんでした。そこで16歳の私が160人を連れて、今は韓国ですが当時の朝鮮に行ったのです。しかしガソリンも無くなって、そのうち敗戦になり日本に帰ってきました。

 そして何か仕事をしなければと考えていたところ、友だちから「朝、横浜公園に並ぶと仕事があるよ」と教えられて行ってみました。

 そうしたら大きな男の人がいて、「食事付きで一日20円の仕事がある」というんですね。順番に呼ばれて私が連れて行かれたところは警察署の留置所でした。そこで、「鉄格子のサビをサンドペーパーで落とし、そのあとペンキを塗るように」と言われたのです。生まれて初めて人さまからお金をもらって仕事をするので夢中になってやりました。そしたらきれいになりまして、自分が入りたくなってしまいました。(爆笑)

 それをずっと見ていた水兵さんが「あんたはよく働くな~。留置所で働いているのはかわいそうだな」と言うんです。それに対して「いや、一日だけなんです」と答えると、「そしたら、うちに来い」と言うんですね。隣にFleet Post Office(米国海軍郵便局)があったんです。ここはアメリカから船で日本に届いた郵便を仕分けして配る部署です。

 そこで中学程度の英語を使って働いていたら、だんだん可愛がられてきたのですが、そのうちに船でアメリカに行きたくてしょうがなくなってきたんです。

 そうしたら水兵が言うんですね。「この船は来週、アメリカのサンディエゴに行くから、そのまま潜っていればいい」と、潜る場所を教えてくれたんです。

 これでやっとアメリカに行けると思っていたのですが、やがて着いたところは韓国の仁川(インチョン)でした。(笑)

 そして次は「今度は絶対に行けるぞ」ということで乗って行ったら、着いたところは台湾の基隆(キールン)でした。(笑)

 そこで頑張れ頑張れと自分を鼓舞して乗っていたら富士山が見えてきたんですよ。戻ってきちゃったんですね。

 その水兵さんがいい人でね、私がどうしてもアメリカに行きたい、アメリカの大学に入りたいと言うと、本当にセットしてくれたんです。サクラメント州立大学です。

 当時、飛行機代が288,000円なんですよ。私は1日500円しかもらっていなかったので、とても無理ですよね。

 そしたら彼がハワイのJALにその全額を送ってくれて、私は一銭も支払わずにアメリカに行くことができたのです。

 ロサンゼルスに着いたら、力道山にバッタリ会ったんです。知り合いじゃなくて初めて会ったんです。

 「おまえ、何しに来たの?」と聞かれたので、「学校に勉強しに行くんです」と答えたら、全米を99日間、無料で乗降できるバスのパスをくれたんです。これで私は無事に大学に行くことができました。

 大学では「何をしたいの? どんな科に入りたいの?」と聞かれましたが、何も考えていなかったんですね。「そんな学生いるかよ」と言われて、日本ではアテネ劇場で映写技師のアルバイトをしていたと言うと、その人が「自分の弟子がハリウッドでそういうことをやっているので、そこに行け」と。大学に行きながらその技術も学べると言うんですね。もちろん単位は取れると。あれ~? なに喋っているんでしょうかねぇ。(笑)



ここまでが松永さんの前説ということで、ここから第2部の本番となり、進行役の清水による解説と松永さんのお話を交えながら進む。


横浜市中区(山下公園)

『赤い靴はいてた女の子』

山本正道 作

昭和54年11月11日 完成

 昭和54年、山下公園にて日の目を見た「赤い靴はいてた女の子像」、以後は横浜のシンボルとして、また貴重な観光資源としての役割を担うことになった結果、モデルの佐野きみに所縁のある街は続々と新たな「赤い靴の女の子像」を作成した。

静岡県静岡市

清水区

(日本平山頂付近)

『母子像』

高橋剛 作

昭和61年3月31日 完成


東京都港区

(麻布十番商店街)

『きみちゃん像』

佐々木至 作

平成元年2月28日 完成

北海道虻田郡

留寿都村

(赤い靴公園)

『母思像』

米坂ヒデノリ 作

           平成3年10月 完成


北海道小樽市

(運河公園)

『赤い靴 親子の像』

ナカムラ アリ 作

        平成19年11月23日 完成 



北海道函館市

(函館西波止場前)

『赤い靴 少女像』

小寺 真知子 作

平成21年8月7日 完成

 

青森県西津軽郡

鰺ヶ沢町

(海の駅わんど)

『赤い靴 親子三人像』

田島義明 作

         平成22年11月3日 完成

 JR横浜駅の南口(当時)に造られた、山下公園のミニチュア版である「赤い靴はいてた女の子像」。

 現在は横浜駅東西自由通路にある。



 この新聞記事は、昭和57年8月の「赤い靴コーナー」除幕式のものである。

昭和56年11月に東西自由通路が開通し、横浜駅がなお一層の盛り上がりを見せる最中、式は華やかに執り行われた。

 写真には、横浜を代表する作曲家・高木東六と女優の沢田雅美も写っている。

 さて、この赤い靴ミニチュア版は999体作られているのだが、これは杉田でこんにゃく店を営んでいた水野さんが保存している321番の像。この日、参加者の皆さんに見ていただいた。



こちらの新聞記事は、平成2年1月の「赤い靴コーナー」再設営についてのもの。記事によると、最初の設営後、横浜駅の窓口増設工事で倉庫送りになってしまったとのこと。どうやら、再設営された当時の像には『赤い靴』のメロディが時報代わりに流れるという仕掛けがあったそうだ。現在は大変にぎやかな場所にあるためか、その音を聴くことはできない。

 こちらの新聞記事は、再設営後、早々の受難について…「赤い靴はいてた女の子像」が、台座からもぎ取られたという事件。

幸い、像そのものは持ち去られることはなかったのだが、修復に1週間ほど掛かったとのこと。

 

 こちらは復旧時の記事。併せて「赤い靴」グッズの販売についても採り上げられている。

『赤い靴』と『青い眼の人形』の英語版のミュージックテープについて書かれている。

 横浜駅の待ち合わせ場所のひとつとして有名になった「赤い靴はいてた女の子」像。平成10年に入ってから、みなとみらい線の工事と駅構内の改装工事を理由に撤去された。



 その間は東神奈川駅近くの倉庫に保管されていたとのだが、戻るのは早くても平成16年頃の見通しだった。

 しかし、「東洋のサグラダファミリア」とも呼ばれている横浜駅、現在までも続く改装工事の影響もあり、最終的には平成22年12月1日に現在の場所へ戻ってきた。

 数々の文化交流活動を進めてきた赤い靴記念文化事業団だが、その活動も少し紹介しておきたい。

 これは事業の一覧である。いちばん上に書いてあるのは「赤い靴児童文化大賞」。毎年、児童文化の向上に貢献した映像、出版、音楽、福祉の作品やそれに携わる人を選考委員会で選び顕彰している。



 こちらは、第22回「赤い靴記念文化大賞」授賞式のリーフレットからの抜粋。

 受賞者の顔ぶれが豪華。第2回にギタリストの高中正義、第3回はのちの選考委員長である高木東六、副委員長で作詞家の小黒恵子などの名前が!

 他には野球選手の屋舗要、東ちずる、小山内美江子などそうそうたるメンバーが受賞されているが、第24回でこの事業は終わっている。


 次に赤い靴児童劇団。演劇、ミュージカルを通じて豊かな人間性を養い、ステージマナーを身につけて、将来、堅実な社会人、芸能人として活躍できるための演技、ダンス、朗読などのレッスンや公演を行っている。

 もう一つの大きな事業が高齢者の合唱団ザ・シワクチャーズ横浜。高木東六が沖縄に行ったときに、この名前の合唱団があり「これはフランス語みたいで面白いじゃないか。横浜にも作ったらどうか」ということで「ザ・シワクチャーズ横浜」という名前を付けて募集したら600人も集まり、世界最大の合唱団になった。

 練習場所も大変なので、人形の家を借りて、まるで宝塚のように雪組・月組・花組と3つに分けて始まった。

 その後は世界中を回っている。15か国くらい。イタリアにはメンバー70人と高木東六と行った。訪問先は「ヴェルディの家」。音楽家のための老人ホームである。本来ならここで演奏することはできなかったのだが、高木東六の名前と、手配してくれた方のおかげで歌うことができた。

(ヴェルディ:オペラの作曲家で『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などの作品がある)

こういう素晴らしい演奏旅行を各国でさせてもらってきた。

もうひとつ。横浜少年少女合唱団に対抗して赤い靴ジュニアコーラスをつくった。今は人数が減っているが、100人も集まった。

こちらの合唱団もイギリスのフィリップ殿下の前で歌わせてもらっている。



 横浜市は昭和30年10月に、サンディエゴ在住の村岡三郎氏(横浜市出身)の提案により、横浜市から雪見灯ろうを寄贈したことをきっかけとして、同年11月、横浜で開催された日米市長及び商工会議所会頭会議に出席したサンディエゴ市長チャールズ・C・デイル氏からの申入れを受け、昭和32年10月29日に姉妹都市の提携に至った。

 以後、動物の交換や青少年交流など、様々な形での交流事業で関係を育んできた。

 平成27年9月には、横浜市立金沢高等学校とミッションベイ・ハイスクールが姉妹校提携をし、相互訪問やオンライン交流を行っている。

 この新聞記事は、姉妹都市締結から51年を経た平成20年のもの。

 計画では山下公園にある女の子像と同じものをアメリカに贈って、お互いに横浜からアメリカを見る、アメリカから横浜を見るという発想でいたのだが、最終的には山下公園の像はあの詩のイメージで造ったので、それと同じものをアメリカに置くというのは違う。

 そんなことから赤い靴ジュニアコーラスの団員をモデルにして新しい「女の子」像を造ることになった。富山県高岡市在住の彫刻家である米納宗宏(こめのう・むねひろ)氏がデザインを行い、同地に拠点を持つ藤田銅器製作所が作成した。

このプロジェクトが本格始動した平成21年は「赤い靴はいてた女の子像」建立から30年、 横浜・サンディエゴ友好交流50年、日本の童謡誕生から90年、そして横浜開港150周年という節目の年だった。



 紆余曲折?の末に書かれたUSA版「赤い靴はいてた女の子像」のスケッチである。

セーラーベレー帽とセーラー服(赤い靴ジュニアコーラスのユニフォーム)に、横浜市の花であるバラと、サンディエゴ市の花であるカーネーションを持ったデザインとなっている。

 建てる場所はサンディエゴのシェルターアイランド。山下公園によく似た、海が臨める公園である。

 親善大使は杉田劇場の事業でも毎年のように出演している女優の五大路子さん。

 除幕式の2か月前に掲載された新聞記事。

 「小さいころから口ずさんでいた歌の少女が海を渡り、人と人との絆を作る友好の懸け橋になれば」と語っている。



 平成22年6月27日。除幕式にて、赤い靴記念文化事業団団長の松永春氏が、サンディエゴと横浜の永遠の友情について語った。(記事のキャプション)

 サンディエゴ市長、港湾局長、市会議員、領事館の領事、そしてサンディエゴ横浜姉妹都市協会のビショップ金子さんが除幕。



 サンディエゴ市長と田島実季さん。

 像の高さは台座を含めて180センチ。その台座は山下公園にある像の台座と同じ石材で同じサイズ。

 これはサンディエゴ市が寄付してくれた。

 サンディエゴで行われた除幕式の様子を伝える平成22年29日の神奈川新聞。

 山下公園の少女像を管理する赤い靴記念文化事業団の松永春団長は除幕式で、「赤い靴」の歌詞に「異人さんのお国にいるんだろう」とあることを念頭に、「外国に少女像を建てる夢を30年間持っていたが、多くの人に助けられて夢がかなった」



 最後に、「赤い靴はいてた女の子」像の第3弾を来年企画しているので、その紹介を少しだけ。

 左は第1回赤い靴児童文化大賞[特別賞]を受賞した菊池寛氏の作品『赤い靴はいてた女の子』。

 「赤い靴」にはモデルとなる女の子がいたという話がある一方、それは作り話だとして否定する人もいる。

 次回はここまで敢えて触れてこなかった「赤い靴はいてた女の子」のモデルについて、お話しを進めていく予定。【了】


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第62回いそご文化資源発掘隊 横浜芸者が伝える関東大震災から100年の物語

(2023年9月1日開催) 

開 催 日/2023年91日(金)

開催時間/14:00~16:30

   場/杉田劇場5階 ホール

参 加 者/125名

出 演 者/横浜芸妓組合の芸者ほか

構成・演出/加藤俊彦

 

チケット/2,000円(全席指定)

第1部

加藤 今日は関東大震災から100年の日ということで、先ほど11時58分に芸者衆と共に黙とうをさせていただきました。

 

今日は、開港から震災までの期間もあわせて語らなければいけないと思い、第1部では「磯子小唄」、「野毛山節」をお聴きいただきます。

 この「野毛山節」ですが、「♪鉄砲かついでノーエ~」とか「♪オッピキヒャラリコ、ノーエ~」とかいう歌詞があります。開港後、横浜に入って来た外国の軍隊が調練をしている風景を歌ったもので、これは何かというと、オッピキヒャラリコというのはラッパの音なんです。向こうもこっちのチョンマゲを見て「何だあれは」と言っているんですね。

 この「野毛山節」は外国の軍隊をおちょくっているのですが、富士山の方へ行くと、「富士の白雪ぁノーエ」と綺麗な歌詞になっていんです。(三島の農兵節) 

 

 むかしはCDもインターネットもないから、流行歌を残すには同じ旋律の替え歌であちこちに残していったわけです。

 もう一曲は「磯子小唄」で、昭和初期につくられたご当地ソングです。なんとか小唄というのがあちこちにありました。たとえば「平塚小唄」。

 関東大震災から復興して、「さぁ、皆さん遊びに来てくださいね~」という感じの歌なのです。「磯子小唄」も同じですね。

 この曲は町田嘉章という大作曲家が作っており、歌詞には「磯子通りは二筋道よ 聴くは三筋の 弦の音を 弦の音を~」という情景が描かえています。二筋道といいうのは「浜」から旧道と当時の県道(現16号線)に分かれる二つの道を歌っているのです。三筋というのは三味線のこと。「浜」から「芦名橋」にかけて花街があり芸者衆が大勢いたのでその情景でしょう。

 さて、ふつう講座というと、先生が出てきて画像を見ながら説明していくという形が一般的ですが、横浜芸者はそうではなく、劇仕立てでやっていこうと考えました。芸者衆はいろんなことをやっています。

 先日はピンクレディーをやりました。今日ご覧になって、「こんなことをやってほしい」ということを思いついたら、なんでもいいのでアンケートにお書きください。無謀な挑戦でも何でもやるっていうのが、芸者の面白さなんです。

 今回の演奏では三味線だけではなくお琴を入れます。新バージョンです。いろんなバージョンで残していくっていうのが、古典をやっていくなかで大事なことだと思います。今やっている曲が飽きちゃったから捨てるというのではなく、飽きないようにこんなのを入れたらいいんじゃないかと、変えてやっていくことが重要なのです。



磯子小唄の演奏と踊り演奏

琴(㐂八)

三味線(和か)

太鼓(由か)

唄(美か)

篠笛(小とり)

踊り 楓・富久丸・かでん・結月



野毛山節の演奏と踊り

 

〽野毛の山からノーエ

野毛の山からノーエ 

野毛のサイサイ

山から異人館を見れば

 

〽鉄砲かついでノーエ

鉄砲かついでノーエ

お鉄砲 サイサイ

 

かついで 小隊進め



 

福久丸 みなさん、こんにちは~。横浜福久丸でございます。どうもありがとうございます。今回はお琴を入れて、より華やかに磯子小唄を演奏してみました。昔のお姐さん方も、大事に伝えるために、新しい楽器を取り入れたり、リズムを変えたりして、常に新鮮さを求めていたと聞いております。

 さて、続いての曲は「復興小唄 濱自慢」です。

 開港当時の横浜で外国との貿易が始まりましたが、長いこと鎖国をしていたため何が売れるのか分からなかったし、外国の方も日本人が何を買ってくれるのか分かりませんでした。

 そんな中で、あるイギリス人が生糸を買ってくれたところから、空前のシルクブームがやってきました。貿易がうまくいき港が栄えると、花街も発展。英語が話せる、社交ダンスが踊れる、西洋楽器が弾ける、様々な芸者が台頭してきました。

 外国の方は日本に移住し、横浜はどんどん発展していきましたが、そんな中で関東大震災が起きてしまいました。

大きな津波、大火災などのため外国の方々はどんどん撤退してしまいます。そして貿易が難しくなった時に立ち上がったのが、三溪園で有名な原三溪さんでした。

 震災後、彼は芸者のために「復興小唄 濱自慢」という歌を作りました。この曲は横浜の四季を歌った曲で、横浜を観光名所にしたいという考えが現代にも伝わっています。

 そんな「濱自慢」、戦後は原盤が行方不明になっていましたが、2011年の東日本大震災の時に発見され、原三溪さんが大震災から人々を守る力強さを感じさせる曲として話題になりました。

 そして今回は、杉田劇場のスタッフの好意で特別に三溪園から許可を頂き、この原盤を使って「春」「夏」を踊ることができるようになりました。戦後、このような機会を得たという情報がありませんので、戦後初の企画でしょう。

 そして「秋」「冬」を現代の横浜芸者が演奏いたします。原盤と生演奏を通して、震災から100年を乗り越えてきた横浜芸者の力強さや、文化芸術を感じていただけたらと思います。

 

 それではお楽しみください。



「復興小唄 濱自慢」の演奏と踊り

「春・夏」は原盤をバックに踊る。

 

「秋・冬」は横浜芸者の演奏をバックに踊る。 

 こちらの生演奏では三味線の他に、篠笛、太鼓、オーシャンドラム、琴が参加。オーシャンドラムとは、平べったい太鼓の中によく転がる小さな粒が入っており、楽器を傾けることによって波のような音を出す擬音楽器。

 

〽横浜よいところじゃえ

青葉若葉の町つづき

屛風ヶ浦の朝なぎに

 

富士がめざめて化粧する

  ことり ありがとうございました。私は横浜ことりと申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 お聴きいただいた「濱自慢」ですが、最初の春・夏の踊りでかけた音源のは、三味線が一人という演奏でした。それに対して秋と冬を演奏させていただいた現代のバージョンは楽器も増えて華やかになっております。私はどちらも好きですが、原盤にあこがれながら現代のバージョンを演奏させていただいております。

 実はこの原盤とは別にレコードも残っており、原盤とはちょっとメロディーが違うんですね。芸者衆もどっちが好きかで歌い方が分かれます。その違いの聴き比べを次回の公演でやってみたいと思っています。



 さて、次の曲は「夏は蛍」です。地唄舞とか上方舞と言われる、まるでお能のようなきれいな旋律を付けた曲で、京都の芸子さんたちが好んで踊る曲です。

 地唄舞には、「黒髪」という名曲があります。好きな人を思ううちに夜が更けて、お寺の鐘が鳴る頃には雪が降り、雪と共に好きな人への思いが積もるというような内容です。

 これからお聴きいただく「夏は蛍」はその夏バージョンと思っていただけたらいいです。

 夏は夜が短くてすぐ朝になってしまいます。なので朝になっても泣き通すという内容になっています。

 今回はそんな意味を無視して、蛍に目を向けてみました。蛍は短歌にもよく出てきますが、蛍はご先祖様や、その場所で死んでしまった人の霊が彷徨っているという意味で使われることが多いようです。

 また金属音は、あの世でいちばん聴きやすい音として、仏壇の鐘や神社の巫女さんが振る鈴など、さまざまな所で活躍します。夏の風鈴もお盆の時期に、ご先祖様に自分の家の場所を教えている等、風情があります。 

 

 百年前の大震災で亡くなった方々に心を込めて、横浜芸妓組合代表の横浜福久丸が「夏は蛍」を舞います。

踊り:横浜福久丸 三味線:横浜㐂八

〽夏は蛍の 灯火に 短き夜半を

 くよくよと 泣き明かしたる

 ほととぎす 仰げば顔に ばらばらと

 あれ村雨が 袖打ち振りて

 よいよい よいよい よいやさ

 

ことり どうもありがとうございます。「夏は蛍」いかがだったでしょうか。

 

 芸者衆、基本的には細い棹の三味線を使う端唄、小唄といったジャンルの音楽をやっていますが、㐂八の専門は地唄でございます。三味線も他の芸者と違って中棹というのを使っております。

 

三味線の豆知識

 さて、流行り病を乗り越えてきた文化についてご紹介したいと思います。

 暴れん坊将軍で有名な8代将軍の徳川吉宗の頃、コレラが流行り、景気づけに始めたのが両国の花火。現代の隅田川の花火ですね。上流を「玉屋」が、下流を「鍵屋」が運営を担っていました。上流から上がれば「たまや~」と、下流から上がれば「かぎや~」と掛け声をかけて盛り上がりました。

 実は、玉屋は35年目に火災を出して追放されているのですが、その史実はあまり知られていません。ですが、いまだに花火が上がれば「たまや~」ですから当時は相当な人気があったのでしょう。

 そんな花火を愛でる名曲「上汐」、そして「夏祭宝獅子」を続けてお楽しみください。



「上汐」

踊り:楓 三味線:㐂八

囃子:和か・美か・由か

 

続いて「夏祭宝獅子」。

 

演奏は同じメンバーで。

かでん、男役で登場。

今日はここ、ひばり神社で夏祭りがあるというので、最近入った新人芸者の可愛い叶雪(かなゆき)ちゃんを夏祭りのデートに誘いたいと思います。

 



 そこに叶雪ちゃん現れる。

 かでんは綿アメやかき氷で叶雪ちゃんを誘うが、彼女は誘いを拒む。

 

 さらにしつこく誘っていると…

 男役になった楓お兄さんが来た。かでんが叶雪ちゃんをしつこく誘っていることを聞いた楓お兄さんは、かでんに対して金魚すくいでの勝負を挑む。



 しかし、楓お兄さんの金魚すくいポイはしっかりした物なのに対し、かでんが持たされたのは輪っかだけのポイ。これでは勝負にならず、かでんは退散。

 ここで、いきなり美空ひばりの「お祭りマンボ」がかかり、二人で踊る。

 旧杉田劇場で初舞台を踏んだ美空ひばり。その劇場の名を愛称とした磯子区民文化センター杉田劇場の舞台で、横浜芸者がひばりの歌をバックに踊るという面白い演出だった。

 歌い終わると音楽は一気にお囃子の生演奏が始まる。そこに飛び出してきたのはお獅子だ。

 しばらく獅子舞を踊っていると…



 楓お兄さんと叶雪ちゃんが再び登場。しばらくして、お獅子をからかっているうちに、いつの間にかお囃子は子守歌に変わり、お獅子は眠ってしまう。二人はお獅子を起こそうとするが、怖くて近寄れず逃げてしまう。

そこに、かでんが戻ってきて、楓お兄さんが捨てていったポイを使ってお獅子を起こすと、突然、大黒天が現れた。

関東大震災から100年、杉田劇場に来られた観客の皆さんと共に、その復興を祝う口上を述べる。

 すると、いきなりお囃子が始まり、舞台袖から楓、かでん、叶雪の3人も現れて、舞台から客席に向かってキャンデーを投げ込む。



第2部

横浜芸者が伝える

関東大震災から100年の物語

 これまでの「いそご文化資源発掘隊」では、あるテーマについて講師が解説をしていくというスタイルが多かったのだが、今回は芸者衆が自分たちでこんな企画を考えて、舞台を作り上げていった。

 関東大震災とその前後の状況などをテレビの情報番組風にして、現地との中継を交えて解説するという面白い番組となった。

 使用した写真は横浜市中央図書館や磯子図書館が所蔵しているもので、両館から許可を頂いて投影することができた。

叶雪 こんにちは! 横浜芸者が横浜を紹介する番組、「横浜芸妓組合TV」のお時間です。アナウンサーは新人芸者の叶雪です。どうぞよろしくお願いいたします。

 新人アナウンサーなんだって、すごいね。そんな私はゲストの楓です。よろしくお願いしま~す。

かでん お爺ちゃんが大好きで横浜芸者になった「かでん」です。今日はコメンテーターとしてやって来ました。

叶雪 さて、今日は関東大震災から100年経ちました。

 192391日午前1158分に起こった激震で建物が倒壊、そのあとの火災で、横浜は壊滅状態になりました。

叶雪 これは被災した横浜駅です。

楓・かでん うわ~、ひどい~。

叶雪 今の横浜駅は三代目で、初代は桜木町に、二代目は高島町にありました。二代目は1915年に造られたのですが、わずか8年で倒壊してしまいました。

 ひど~い(涙)

叶雪 初代横浜駅は桜木町にあったのですが、そこから関西方面に行くには、先に進むのが難しかったので、スイッチバックしてから西に向かっていたんです。 

 しかし、これでは不便だなということで、高島町に二代目が、そして震災後、現在の場所に三代目が建てられたのです。

 さて、こちらは横浜市役所です。外観は残りましたが、内部は完全に燃えてしましいました。

 そこで、ゲストの楓お姐さんにお聞きします。この建物、この後どういう処理をしたでしょうか。

 楓が大きなくしゃみをして壊した。

全員 ……

叶雪 正解は爆破で壊しました。

 すごいですねぇ~



叶雪 次にご覧いただくのは仮市役所となった中央職業紹介所です。

 ここで市議会が開催されたそうです。この建物は桜木町駅の横に、昭和50年代まで残っていたので、懐かしく思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 こちらの写真は半壊した高架線から写したものですが、左端にあの特徴的な三角の屋根が見えていますね。

 この写真はロビーに貼ってありますので、お帰りの際にご覧いただければと思います



叶雪 これは壊滅してしまったジャックこと、開港記念会館です。

 開港50周年を記念して大正6年に建てられ、これまで開港記念横浜会館として使われていました。地震の揺れにはビクともしなかったのですが、内部は入った火により燃え落ちてしまいました。 

楓・かでん うわ~。ひどいことに…

 鉄が溶ける温度だったんですね。床は抜け落ちているし、内部は全滅ですね



叶雪 かつて、花街として栄えていた磯子。海辺には「偕楽園」という高級料亭がありました。

かでん ああ、これね。戦時中は海軍指定の料亭だったんですよね。

 ちなみに、海軍指定旅館という金沢園もありましたが、こちらは現在、カフェとして営業しています。

 話がそれました。

 ここ偕楽園は海軍指定の料亭だったことで、戦時中から大量のお酒などが、向かい側の崖地に掘られたトンネル内に貯蔵されていました。戦後、それらが出てきたということが知られています。

 

 また、ここは芸者の養成所でもあり、古来の芸ごとの他にお茶やお花なども教えていました。

 料亭であると同時に、芸者の学校みたいな所だったのね。

叶雪 これは百畳の大座敷です。

 おお~、すごいですねぇ~。私たちもこんな所で踊ってみたいですね。

 昔の芸者さんはこんなところでお座敷をして、いい旦那さんを見つけて、ここで結婚式をしていた…なんてね。 

叶雪 そんな素敵な偕楽園なのですが、こちらの写真をご覧ください。

叶雪 これは海側から見た偕楽園です。これをご覧になってどう思いますか。

 すぐ傍まで迫っている崖がむき出しですよね。今だったらコンクリートで固めるとかして、絶対に土砂崩れが起きないようにしますよね。

かでん 地層マニアにはいいかもしれませんけど、ちょっと怖いですね。



叶雪 関東大震災で崖崩れに襲われた偕楽園では男性11名と女性10名、合わせて21名が亡くなっています。

 これは金蔵院の中に建っている大震災横死者の碑です。

 裏に亡くなった方々の名前が彫られているのですが、11名の男女しか確認できません。なぜ11名なのか、情報を知っている方を探しています。

 偕楽園は根岸湾の埋め立てが始まったことにより、昭和43年に廃業してしまいました。

叶雪 これは震災復興で造られた物揚場です。天神橋の上流にあります。

かでん 昔は大きな船が港に入ると、小さな船にその荷物を積み込み、川を遡ってこういう物揚場で下ろしていたんですね。

 今はコンテナを積んだ船が来て、それを車で運ぶようになったので、川の文化から陸の文化に変わっていったということが言えます。

 

 この物揚場は天神様へ行く天神橋の近くに現在も残っています。



叶雪 天神様といえば、磯子には芸者や料亭の人たちが通っていた、別名「色天神」と言われた岡村天満宮があります。こちらの写真は、関東大震災で倒壊してしまった岡村天満宮です。

 正面の屋根が崩れた建物が社殿で、右端に写っているのが神楽殿です。手前の柱状のものは鳥居ですね。

叶雪 天満宮の敷地内には、いろいろな石碑が残っています。これはそのうちの一つで、寄付をした料亭などの名前がたくさん彫られています。

 こういうのは私たち、現場で見ていますよね。

 

かでん なぜならば、JRのポスターを作るために、こちらへ撮影に行っているのよね。



叶雪 八幡神社といえば、八幡橋の際にある八幡橋八幡神社。境内には御大典記念の石碑が建っています。その上部に謎の球体が乗っているのですが、これが何なのかは不明です。

 その碑の下部に「磯子二業組合・芸妓組合」の名が彫られています。私も昨日、見に行ったのですが、この球体が何のために使われていたのか、ご存じの方いらっしゃいますか。

叶雪 さて、こちらは震災で被害を受けた横浜刑務所です。

 うわ~! 跡形もない。倒壊していますねぇ。

 

かでん 手前に写っているのは、壊れたレンガ塀でしょうかね。

叶雪 この刑務所にまつわるこんなエピソードもあるんです。

 椎名所長は、千人近い囚人たちが自分の家族などの安否確認をできるよう、周囲の反対を押し切って、24時間以内に帰還することを条件に解放するという決断を下したのです。

 ここでまた質問です。この千人近い囚人は、その後どうなったと思いますか。

 普通に考えたら逃亡しちゃったんじゃないですか。

叶雪 正解は…よその刑務所や警察署に出頭した囚人を含めると、ほぼ全員が戻って来たそうです。

 へえ~。所長と囚人という関係だけではなく、普段から「人と人と」いう信頼関係が築けていたからこそ、戻ってきたと言えるのではないでしょうか。

叶雪 今日は、そんな刑務所に所縁のある場所と中継がつながっています。

叶雪 市花(いちか)さ~ん!

市花 はーい、現地レポーターの市花です。私は今、港南区の総合庁舎に来ています。区役所や消防署が入っているのですが、なぜこちらに来ているのかといいますと、この銘板に秘密があります。



市花 当時の刑務所の壁はレンガ造りでしたが、震災で欠片となってしまいました。それが、このフェンスに練りこまれているのです。裏に解説文もあります。「関東大震災で発生した煉瓦礫を用いて建設された」と書いてあります。百年前の歴史が、今もこうしてうかがうことができますね。港南区にお越しの際は是非、みなさまも足を運んでみてください。

 現場からは以上です。それではスタジオにお戻しします。

叶雪 市花お姐さん、ありがとうございました。

 百年前に刑務所が起こした奇跡が今もこうして横浜を見守っているんですね。

 

 さて、震災から百年の歴史を無形で伝えているのが、原三溪が作詞した「復興小唄 濱自慢」です。そして、有形で復興を伝えているのが震災復興橋です。短い期間で多くの橋を造らなければならない場合、標準的なパターンで、どこにでも同じような橋が建設されることが多いと思います。

しかし、震災復興橋はそれぞれの個性が出るよう、親柱や高欄に独特のデザインを取り入れているのです。



かでん 戦時中の話ですが、これは字が読めない子どもたちが目印にするくらい特徴的なものです。

 関東大震災ですべての橋が落ちたり焼けたりしたわけではなく、私の祖父は吉田橋をよく待ち合わせ場所にしていたそうです。

 震災でも崩れなかったのね。

叶雪 さて、たった今、取材班が次の現場に到着したという報告が入りました。

 

 現場の市花お姐さ~ん、どうでしょうか~。

市花 ここは石川町駅から徒歩10分ほどのところにある打越橋です。

 ここ一帯を切通しにして、横浜駅根岸線(道路)や市電を通しましたが、そのせいで分断されてしまった丘に架けられたのが、この打越橋です。

 切通で発生した土砂は、山下公園の造成にも使われているそうです。

 

 もうひとつ、近いところに復興橋があるのでご紹介したいと思います。



市花 こちらは同じ石川町駅から徒歩7分ほどのところにある桜道橋です。

本牧通りの切通しとなった部分に架けられた橋です。先ほどの打越橋は現代的なデザインでしたが、こちらは打って変わって、石張りのデザインとなっています。

 景観にも気を配られ、風格があり歴史的な佇まいを感じさせます。当時の設計者の意気込みがすごかったことが分かりますね。

 

 では、スタジオにお戻ししま~す。

叶雪 ふだんの「いそご文化資源発掘隊」では専門家の方が講演を行っていると思いますが、我々は子どもから大人まで、分かりやすく伝えることをモットーに発表してまいりました。

 

 以上YGKTVでした。Yokohama Geigi Kumiai



このあと舞台転換の時間を利用して、横浜和かによる篠笛の演奏が行われた。

 和か 皆さま、1部と2部はお楽しみいただけましたでしょうか。今、3部に向けて舞台の準備中なので、その間に笛の演奏をお聴きいただこうと思います。

 

 美空ひばりの曲などをメドレーにしてみましたので、お楽しみください。

曲目 りんご追分(美空ひばり)/真っ赤な太陽(美空ひばり)/

栄光の架橋(ゆず)/熱き星たちよ(ベイスターズ応援歌)

美か みなさん、こんにちは! 横浜美かです。本日の震災から百年の物語、いかがでしたでしょうか。(拍手)

 ありがとうございました。これから聴いていただく横浜芸者コンサートでは、震災より前の曲を中心にお聴きいただきます。



 まず1曲目は「赤い靴」です。横浜美かが、㐂八の琴の演奏で歌います。続いて「青い目の人形」をお聴きいただきます。

 1920年代にアメリカから親善を目的に贈られてきた人形がありました。アメリカに連れて行かれた赤い靴を履いてた女の子と同じように、心細かったのかなと思わせてくれる童謡です。

 この曲は美か(歌)と㐂八(琴)、和か(篠笛)、ことり(フルート)でお送りいたします。

美か 続いて最後の曲となります。「横浜ホンキートンクブルース」。こちらはもう一人加えて5人で演奏します。

 

 ドラムの有かさ~ん。(和かさんは篠笛から三味線に持ち替えです)

 

ホンキートンクブルースでは「飯を食うならオリジナル・ジョーズ」という歌詞があるのだが、そこを「ショーを観るなら杉田劇場」という風に言い換えていた。



加藤 開港当時の芸者衆は、社交ダンスを踊ったり、和洋の楽器を使って演奏したりしていたそうなので、こんな光景だったんでしょうね。

 それでは、全員でかっぽれ~!

フルート:ことり 三味線:㐂八 ドラム:美か

チャンチキ:有か 篠笛:和か 踊り:福久丸、楓、かでん、叶雪

 

獅子舞:ゆうた

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第62回発掘隊報告書.pdf
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