いそご文化資源発掘隊2023(2)


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第60回 暗渠探索の愉しみ(4月14日の講座編の後半)

第60回 暗渠探索の愉しみ(4月20,21,25,26日の探索)


白旗川 陣屋川と同じようにこちらもルートは2つある。一つは荻久保ルートで、荻久保のため池を出たら森六丁目公園から京急を越えて屛風浦小学校横を通り遊歩道を経て河口である森町公園横に至る。もう一つは柳作(やねさく)ルート。柳作のため池からひっちょたれ山際を通って京急を越えていく。

昭和6年刊の「土地宝典」。

矢印部分が白旗川の本流の河口。四角で囲った部分は橋。



同じエリアを現代の地図で確認する。

白旗川を河口から遡ってみる。

磯子郵便局の横を流れる開渠部分。

奥に写っている部分に近づいて撮影したのが真ん中の写真で、これは渡ることのできない橋である。

旗立橋(はたたてはし)といい、源氏の白旗を立てた石の伝説にちなむ名称だ。ここが現代における白旗川の河口で、このあと陣屋川と合流し大岡川分水路に流れ込む。

丸い構造物は旗を立てていたと言われている石。この近くに住む栗田さん(後述)が保管している。



右のビルはHONDAで、左のビルの横にローソンがある。二つのビルの間にある遊歩道が昔の河口。

白旗川は手前の道路の下を流れて海に注いでいた。

かつて、川の両側には「梅乃園」という料亭があった。川の中程に本館と別館をつなぐ赤い橋が架かっていて、その上を芸者が渡っていた。春になると雪洞が桜の花を照らして美しかったという(近くで料理旅館「げんき」をやっていた人の孫・栗田さん談)。

写真左は昭和4年頃の風景。黄色い矢印のところに、道路に架かっていた橋の欄干が見える。右の写真は現代。電柱の位置も昔と同じだ。



遊歩道になった白旗川の暗渠。車止めのポールが暗渠であることのサインとなっている。

遊歩道が終わり車道を渡ると車止めがあり細い道が続いている。その先には擁壁があり水が染み出ている。



屛風浦小学校横を進んでいくとガードレールがあり道はここまで。

車道の向こう側にもガードレールがあり、その先に空地が続いている。

ガードレールで挟まれた道路の部分は元の橋なのか。

暗渠サインである捺染工場が川の傍にあった。(昭和34年)



空き地の先は京浜急行の土手があり、その先には進めない。

回り道をして反対側に行ってみると、川の痕跡を感じる。



荻久保ルートはここから京急線に沿って屏風ヶ浦駅方面へ。

ここで南へ鋭角カーブ。左から写真奥の方へ。



少し進むとこんな暗渠サインが現れる。個人宅の駐車場奥に見えるのは井戸である。昔の水路横にはよくこれがあったものだ。

擁壁の横から飛び出しているのは排水管。これも暗渠サインだ。

森6丁目公園横を遡る。



歩道にしては妙な形だ。脇道にも暗渠らしき水路跡が現れる。

さらに進む。二股道が現れるので、ここで土地宝典と見比べる。左へ曲がる道が水路跡だということが分かる。この先は道が無くなり水路だけになる。



現在は極細の路地になっているが、土地宝典上は水路だ。

いかにも暗渠という雰囲気である。

突き当りにある篁修寺。この前の道路を左に登ったあたりが水源。



この先が谷戸のどん詰まり。

左側一帯に荻久保ため池(上ノ池・下ノ池)=源流があったと考えられる。

 

ここまで荻久保ルートを遡ってみた。

谷戸の風景。



続いて柳作ルートを下ってみる。図は昭和6年刊の土地宝典。

現代の地図でルートを描いてみる。



柳作ルートの水源はこのあたり。森6丁目。

この階段を下っていく。



水源地の風景。常時水が流れ、斜面には水芭蕉が咲いている。

水の豊富な斜面を見ながら下っていく。



このあたりに柳作のため池があった。

「土地宝典」で確認。

929番のところがため池だ。



ため池の記憶。IKENOHATAトランク&レンタルルーム。

池ノ端立体駐車場。この辺では、ほかにマンション名も見られる。ため池は無くなってしまったが、施設の名前として残されている。

マンションの周囲には、分かりやすい開渠と暗渠がある。



ひっちょたれ山際。草が生えている所は元の水路。その奥に見えるのは個人橋で、手前のコンクリート部分も個人橋である。

謎の道。道路の真ん中(白い部分)に駐車場がある。ここが暗渠のように思われるかもしれないが、右側が暗渠なのかもしれない。



さらに進んでいくと、こんな道路になっている。右側に歩道があるのだが、マンホール1個分ほどの幅員しかない。しかも先に行くほど狭くなっている。ここが水路跡なのかもしれない。

さらに下っていくと、見たことのある風景が現れる。京浜急行の土手である。

荻久保ルートから流れてきた川との合流点であり、ここで白旗川は一本にまとまって線路の下をくぐり、屛風浦小学校の横を通って根岸湾に注いでいる。以上が白旗川の全体像である。



境川 二つのルートがある。熊野神社ルートは神社の西側から発して、神社前を通って境川本流につながる。中原四丁目ルートは松ノ内公園谷戸から始まり、滝ノ下用水池→滝の下→崖→京急ガード→杉田小学校北側→国道16号線(河口)。もうひとつ、杉田新道の上から来る宮田ルートがありそうだが、これは後の調査に委ねる。

熊野神社ルート 境川という名前の由来はおそらく村の境を流れていたからだと考えられる。現在の杉田と中原の間を流れている。



熊野神社の背後の丘、昔は凌雲峰と呼ばれていた高台が源流である。

ここは現在、中原四丁目緑地と言われている。

熊野神社西側。(凌雲峰:中原四丁目緑地



水源地の様子(1)。神社横の小径を登っていくと、サトイモのような植物が。

水源地の様子(2)。チョロチョロ流れる清冽な水。小径の途中を左に入ると、石仏が並びその奥には墓地も。



熊野神社から京急方面に向かう途中で見かけた暗渠。

暗渠サインである一方通行。



境川は熊野神社前を通ったあと京急線にぶつかり左へ向かう。

その後、ガード下を流れてコンビニ前に出てくる。

左の写真はそこに建っている熊野神社参道の石碑。

右の写真は熊野神社にある熊野神社参道整備事業(昭和15年起工)の記念碑。

皇紀二千六百年記念参道拡張と彫られた熊野神社の石碑には、事業の概要が書かれている。

《小川沿いにて風雨の日等、通行に危険を感ずる程の狭隘なる参道を拡張せんと市会議員佐藤安蔵氏に相議りしに…》

雨が降ると境川が溢れるため狭い参道が危険になる。そこで市会議員の佐藤安蔵氏に相談し、横浜市と地元がそれぞれ6,000円ずつ負担して参道拡張工事を完成させた。

佐藤安蔵氏は禅馬川の埋め立てにも関わっていた人物。河川改修などで横浜市とつながっていた議員なのかもしれない。



熊野神社ルートで見た暗渠サイン。

写真①は井戸。現役で使用している。

杉田・中原地区にはこのような井戸がたくさんある。

写真②は銭湯の杉田湯(閉業)。

細い通路には排水のための水路があったようだ。

写真③は鉄板をつなげて並べた暗渠。この先にも井戸がある。

以上が熊野神社ルートの概要である。

中原四丁目ルート 



昔の河口部分から遡って行く。

らびすた新杉田(杉田劇場が入っているビル)から16号線を越えて杉田小学校の裏を通る。

熊野神社参道の石碑前を通り、京急のガードをくぐり、ここで右折。

京急の線路に沿って坂を登り、道なりに進んで松ノ内公園に至る。

中原四丁目ルートを河口から遡る。らびすた新杉田と産業道路の間には幅の広い歩道がある。これも暗渠サイン。ただし、ここは元海だったところで、埋め残しで水路状になっていた部分である。



写真右側には以前、ボーリング場があった。そしてこの道は一方通行だった。

境川の昔の河口部分。

手前の16号線を越えて海に注いでいた。



暗渠サインの車止め。右の写真は傍流。

その両サイドに打ち込まれているハマの標柱に注目。土地宝典にも載っている水路だ。

蛇行するガードレール。左の写真は上流から下流を見た風景。右の写真はその逆で下流から見ている。擁壁のあるのが杉田小学校。学校沿いの部分が昔の道で、ガードレールから外部分が境川だ。



この部分を土地宝典で拡大してみた。細長い土地(地番44)の所有者は東漸寺である。

この地図から小学校寄りの道路が昔の道であることが分かる。

小学校の脇にある蛇行するガードレールの道を進んでいくと、四つ角にコンビニが現れる。熊野神社参道の石碑が建っている所だ。

そのコンビニと隣の臨平旅館との間にこんな開渠がある(写真右)

グーグルストリートビューで2017年にさかのぼってみると…

臨平旅館に接して民家が建っていたことが分かる。おそらくその下にこれがあったのだろう。電柱の位置がおかしいと思ったが、コンビニ開業に伴って移設したことも分かった。



土地宝典で確認してみる。

境川は線路の下を流れているのだ。

コンビニの角にある熊野神社参道の石碑からガードをくぐっていくと、そこが3つのルートの合流点になっている。

一つは熊野神社ルート。

二つ目は中原四丁目(滝ノ下)ルート。ガードをくぐって真っすぐ行った先から来ている。

三つ目はガードをくぐって右側から来ている中原四丁目(松ノ内)ルートで、これが本流のようだ。



京急線に沿って中原四丁目(松ノ内)ルートを進んでいくとY字路がある。右が本流で左が中原四丁目(滝ノ下)ルート。

滝ノ下ルートを遡ってみる。

滝ノ下ルートの最後は行き止まりになっている。

その先はかなり急な崖である。



昭和6年刊の土地宝典。現地を地図で確認する。

京急線の跨線橋に上がって現地を遠景で撮影。

赤枠で囲った部分を拡大したのが右の写真。

凹んだ部分を見ることができるが、これが水路だったのかもしれない。ここに滝があったので、地元では滝ノ下と呼んでいる。



京急線に沿った道の左側に中原見守地蔵がある。現在は跨線橋があるが、昔は遮断機のない踏切だった。そこで7人の人たちが轢かれて亡くなっている。この地蔵尊は彼らの慰霊のために建てられた。

参考:ブログ杉田劇場から ←クリック

道は京急線を離れると急坂になり歩くのがきつくなる。

その途中にこんな不思議な構造物が現れるが、土地宝典で確認すると、ここも水路であることが分かる。不思議な暗渠だ。



 

しばらく進むと、こんな庚申塔が現れる。享保12年(1727)の建立である。当時は疫病が流行し、他所から入ってこないように庚申講が行われていたそうだ。

庚申塔のあるY字路を左に行くと、滝ノ下用水池跡の碑がある。

郷土史の好きな方が自費で建立したものだが、境川源流とも書いている。

実はこの先にも池があったので、源流の一つと言った方がいいかもしれない。



用水池跡周辺の水路たち。左の矢印のところに開渠がある。右側の矢印部分には暗渠がある。

用水池周辺・地形の変化。左:昭和6年の土地宝典。イモムシ状の土地は田んぼ。中:昭和22年の空撮(米軍)。右:現代の地図。



谷戸の奥。

坂を登っていくと、なんだか時代を遡って行くような気がする。

どの道も最後は階段があり、高台にある松ノ内公園に至る。

松ノ内公園。ここは「関東の富士見百景選定地」になっている。



夕焼けの富士山。

暗渠を調べていくと、知らなかった地元のいろいろな歴史が見えてくる。

「もしかしたらここに川が流れていたのではないか、と思いながら歩き、帰宅して昔の地図で確認出来たら嬉しい。

暗渠をネタに酒を飲むのも楽しい。【了】



白旗川の探索

河口から産業道路沿いは開渠になっている。

暗渠の入り口にある旗立橋。誰も通れない。







段々細くなる歩道。何だろう?

この先、もう少し行くと京急線に出る。【白旗川探索終了】



境川の探索



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