いそご文化資源発掘隊2019(2)



第46回いそご文化資源発掘隊 「NTTのケーブル名は歴史の生き証人」の記録

(2019年11月28日開催)

 NTTの電柱を見ると、その上部にケーブル名を表示するプレートがついています。「杉田幹(線)」とか「森幹(線)」とか書かれているのは分かりやすいですよね。その地域の町名を利用しているからです。
 しかし、電柱を見て歩くと、そんな簡単なケーブル名だけではないことが分かります。たとえば、「埋立支(線)」、「桐ケ谷支(線)」、「向生支(線)」、「君津支(線)」などいう不思議な名称がたくさんあるのです。
 今回の発掘隊では、これらを見て歩き、そのあとは杉田劇場で写真や地図などを見ながら、ケーブル名から見える地域の歴史を学びました。

磯子スポーツセンターの向かい側にある「埋立支(線)」と書かれたプレート。このあたりで埋立といったら、IHIとか東芝などの工場が建っている新杉田駅の海側に広がる埋立地を思い出しますね。昭和34年から始まった根岸湾埋め立て工事で出現した土地です。
 しかし、こちらの「埋立」は昭和30年代のものではなく、昭和16年ごろの埋立地を指しています。

 駅裏の工場地帯を眺めていると、てっきりこの辺りの埋立地に由来があるのだろうと思ってしまいますが、『磯子の史話』を読んだり、昔の地図を見て戦前の埋立に由来していることが分かったのです。



峰支線

 杉田と中原の町境に立つ「峰支(線)」と書かれたプレート。峰といったら円海山の近く、金沢区と接する町です。プレートの番号は名称として使われている町や施設などに向かって、数字が大きくなるように並んでいます。
 峰支(線)もここから京急杉田第1踏切を渡り、浜中学校を経て笹下釜利谷道路へとつながっています。あのような遠方にある「峰」の名称を使ったケーブルが、なぜ中原から始まっているのでしょうか。

ここに昭和16年ごろの市営バス・市電の経路図が載っています。破線が市営バスのルートで、磯子から本牧方面、磯子から扇町方面、磯子から天神前方面の3本がメインだったようです。
 それともう1本。杉田から峯(峰)へ向かうルートがありました。峰には円海山護念寺の「峰の灸」があったため、ここがドル箱路線だったようです。昭和30年代の写真が残っていますが、ご覧のようにたいへんな賑わいだったのです。



桐ケ谷支線

これは京急杉田駅横のガード際に立っている電柱。そこに「桐ケ谷支(線)2」と書かれています。「1」はいくら探しても見つかりませんでした。おそらく隣にある電柱なのでしょうが、プレートの文字が消えています。
 さて、この桐ケ谷とは、なにか? 長く地元に住んでいる方ならご存知でしょうね。磯子の昔の字名なのです。

配布の資料に昭和34年の住宅地図が張り付けられています。熊野神社のすぐ下に「桐ケ谷」という字名が。NTTのケーブルにつけられた「桐ケ谷支(線)」は、このあたりの字名にちなむものなのです。



君津支線

君津! これは何を意味しているのでしょうか?
 字名でもない、施設名でもない……。まったく謎のプレートですが、想像するに千葉県の君津に由来しているのでしょう。
 横浜と千葉は東京湾を挟んで、いろいろとつながりがありました。本牧には千葉から来たお嫁さんが多いとか、ホンチというクモを使った遊びは千葉から横浜に伝えられたとか。
 もしかしたら、このあたりに君津出身者が多く住んでいたのかもしれません。

貝塚支線(1)

どこかに貝塚があったのでしょうね。

 これは昭和34年の住宅地図。浜中学校の向かい側の丘の上に「貝塚」という字名が見られますね。この字名を名乗っているのが「貝塚支(線)」なのですが、そもそもこの字名が付けられたというのは、ここに貝塚があったからなのです。

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第46回いそご文化資源発掘隊報告書.pdf
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貝塚支線(2)

 『杉田東漸寺貝塚本発掘調査報告2』の中に貝塚の位置を示す地図が載っています。東漸寺付近だけではなく、杉田の高台、森町、屏風ヶ浦などにもあったんですね。


向生支線

 「向生」とはなんでしょうか。杉田に長くお住まいの方はご存知でしょうね。平成何年かまであった「向生病院」です。歴史のある大きな病院だったため、ケーブル名に採用されたのでしょう。

 さて、この向生病院はいろいろな興味深い歴史を持っていたようです。
 昭和26年3月の神奈川新聞の広告に向生病院が掲載されているのですが、なんと住所が磯子区森町、市電「白旗」前とあります。

 向生病院は屛風ヶ浦から杉田に移転してきたのでしょうか、あるいは同時期に2か所で病院をやっていたのか、新たな謎が生まれました。



第47回いそご文化資源発掘隊 「横濱地図博覧会 in 磯子」の記録

(2019年12月22日開催)

会場はコスモス(リハーサル室)

定員60人の部屋が満席となった。

 

 

 

 

 

 

金蔵院の山門

 

 

 

 

 

 

 

 

墓地の向かい側にある横穴

▲栗木神社は、神奈川県内でも3つしかない茅葺の神社の一つ。

 

 

 

上笹下神社

 

写真には明治42年9月15日

上笹下神社祈命

と書かれている。

大半が和服であるが二人だけ洋装の男がいる。

神奈川県か横浜市の役人だろうか。

 

 開港150周年を記念して2009年、大さん橋において「横濱地図博覧会」というイベントが開催された。終了後、これを主催した実行委員会は、「このまま解散してしまうのはもったいない」とのことから、その後も各地で博覧会の開催、横浜市の広報誌への寄稿などを続けてきている。

 今回の「いそご文化資源発掘隊」は同委員会のメンバーをお呼びして、磯子区にかかわる地図や写真、絵ハガキなどを使い、地域にかかわる歴史などをお話しいただいた。

 美空ひばりを扱った第45回と同様、今回もキャンセル待ちの申込者が多数おられ、地元の歴史に興味のある市民がいかに多いか、またまた知らされる結果となった。

 

【当日のプログラム】

1 磯子でお宝をさがしています 横濱シティガイド協会会員

2 堀割川の誕生 綱河功氏(造園家)

3 磯子に花街があった頃 山岸丈二氏(花街研究家)

4 不死鳥伝説 美空ひばりと磯子 山崎洋子氏(作家)

 

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1 磯子でお宝をさがしています

A.金蔵院の横穴

 金蔵院は磯子区磯子4-3-6にある。1328年(嘉暦3年)、理空がこの地に海向山岩松寺を開いたのが始まりだという。お寺は磯子旧道に面した高台にあり、根岸湾に向かって建っている。山号はそのような立地環境を示しているようだ。

 金蔵院の正面から右側に回り込んでいくと、細長い墓地が続いている。そこに向き合うような形で小高い丘があり、裾に横穴が掘られているのが分かる。

 今は鉄柵で囲われていて中に入ることはできないが、これは戦時中に使われていた防空壕なのである。

 この横穴は内部で折れ曲がっていて、別の場所から外に出られるような構造になっているそうだ。

 さて、金蔵院は海向山という名のとおり、海に向かって山門が開かれているのだが、こちらの防空壕の入り口はどっちを向いているのか? 

 説明者の嶋田昌子氏によると、根岸湾に向かわないような方向でできているという。

 万一、米軍が上陸してくるとすると、目の前の海岸から侵入してくるはず。そんな場合、防空壕の入り口が海側を向いていたら、簡単に発見されてしまうので、どこの防空壕も海側からは見えないような作りになっているのだとか。 

 

B.栗木神社の変遷

 栗木神社は磯子区栗木2-13-21にある。『新編武蔵風土記稿』によると、上笹下地区を構成する6か村には、次のような神社があったという。

 

①中里村には稲荷社・太神宮・山王社・山大明神社・駒形明神社・八王子権現社

②矢部野村には金山権現社・稲荷社

③田中村には神明社・御嶽社

④栗木村には山王社・石神社・駒形社・稲荷社・御嶽社

⑤峰村には稲荷社・白山権現社

⑥氷取澤村には荒神社

 

 その後、明治41年9月15日の神奈川県指令第三五三五号によって、6か村にあった10の神社を日下村の栗木の「日枝神社」に合祀し、そこを上笹下神社とした。

①上中里の村社「笹下神社」

②矢部野の村社「金山彦神社」

③田中の村社「神明神社」と「御嶽神社」

④栗木の無格社「御岳大神」と無格社「駒形神社」

⑤峰の無格社「白山神社」と無格社「稲荷社」

⑥氷取澤の無格社「山神社」と無格社「神明社」

 

 しかし戦後、それぞれ6か町に戻り、上中里神社・金山神社・田中神社・栗木神社・峰白山神社・氷取沢神社となった。


▲上空から見た堀割川


 

 

 

 

 

 

 

 

河口の波止場図面

 

(谷地治兵衛氏蔵)

▲舟運の利便性向上のため堀割川を開削し波止場を建設



3 磯子に花街があったころ

偕楽園は、根岸湾の開発による海の埋め立てが進み、また遊興地も関内などの中心に移り、昭和43年に閉館しました。右は昭和8年の地図。偕楽園は左下の海に面した場所にあります。

八幡神社の球体が乗る石碑には、「磯子二業組合・芸妓組合」の名があります。磯子の海とともにあった磯子花街も、埋め立てにより海が遠くなり無くなりましたが、街には僅かにその名残が垣間見られます。


4 不死鳥伝説 ひばり

(左)ひばり一家が滝頭の通称「屋根なし市場」にあった生家から引っ越した家。2番目に住んだ家の敷地は100坪。屋敷は40坪。

(右)家族団らんの中には常に音楽があった。

出典:左は『美空ひばりプライベート』(2005年)

右は『美空ひばりプレミアムブック』(2017年)

 この豪邸は当時のお金で4,000万円くらいだったろうと言われている。

 ひばりの父親が経営する鮮魚店「魚増」の従業員たちは、番犬代わりに御殿で寝泊まりしていたそうだ。

2 堀割川の誕生

 

堀割川の建設目的

①市街地拡張に伴う吉田新田一つ目沼の埋め立てのための土を得る。

②舟運の利便性向上。

③未開拓だった滝頭・磯子エリアの開発を行う。




堀割川による街の発展


 かつて磯子の海は、砂浜が広がり、海水浴場がありました。

 この辺りは風光明媚な場所で、横浜の財界人や外国人たちの別荘や保養所ができました。

 それが、大正時代に料亭が並び芸者の三味線が聞こえる花街=二業地へと発展しました。

 場所は、今のバス停から磯子区役所の南まで、16号線の海側の戦前の埋立地になります。

 

 ちなみに二業地とは料理屋と芸者置屋がある場所で、これに待合茶屋(料理は出さない・宿泊あり)が加わると三業地になります。

 磯子花街随一の巨大料亭は偕楽園でした。偕楽園は、大正15年創業、明治40年の梅乃園や大正11年の磯子園と並ぶ老舗料亭で、海軍の利用も多く、昨年火災で焼失した横須賀の料亭「小松」と同様、海軍料亭と呼ばれていました。さて、この偕楽園の経営者は何者なのかという謎があります。

 これは、昭和9年の横浜市商工案内です。

 赤枠の右側は、関内にあった海外移民の人々が多く宿泊した移民宿「大勢屋旅館」、左枠は「偕楽園」ですが、経営者は同じ「島田国太郎」となっています。

 

 偕楽園は、移民宿の組合である「横浜外航旅館組合」により昭和初期に開館しました。

 

磯子二業組合の組合長で、地元の実力者の葦名金之助は、葦名橋や日枝神社に名前が残ります。


昭和12(1937)年5月29日

磯子区滝頭にて加藤増吉、喜美枝の長女、加藤和枝として生まれる。

この年、日中戦争始まる。

4年後、太平洋戦争へと拡大。

昭和18年 父・増吉が海軍へ。

昭和20年 5月29日(誕生日)、横浜大空襲。

8月6日広島に原爆投下。8月9日長崎に原爆投下。

8月15日 終戦。

加藤和枝 8歳。 

 

 昭和30年代の滝頭。美空ひばりが子供時代を過ごしたころと、それほど違いはなかったのではないか。下は昭和60年代の風景。

 左の写真は昭和30年代の杉田商店街。

 見えにくいが左側の中ほどに「菓子一」というお店の看板が見える。

 ここは大正時代の創業という老舗の菓子店で、昭和21年には売込中の美空ひばり(当時は加藤和枝)が母親と一緒に来て歌っていった。

 「菓子一」の右隣には「芝時計店」がある。そこにも母娘が一緒にやって来て、店頭で一曲歌わせてほしいと。

 店主が祖母から聞いた話では、ミカン箱を置いて、その上に乗って歌っていったそうだ。

左は美空ひばりが初舞台を踏んだ「杉田劇場」。市電の終点近くにあった。右は当時のポスター。美空楽団の横には「美空一枝」という芸名が書かれている。

 

昭和21年9月、ひばりが9歳のときに出演した「アテネ劇場」。

劇場はその後、「磯子映画劇場」と名前を変えて続いていたが、映画が廃れてくると閉館。

写真は昭和50年代に撮影したもので、このころは廃屋になっていた。

今、跡地にはマンションが建っている。

出典:『浜・海・道Ⅱ』(磯子区役所)

 

 昭和28年、ひばりは16歳で通称「ひばり御殿」を建てた。左写真は同年8月に行われた上棟式で撮影したもの。

 場所は磯子台。根岸湾が見渡せる絶好の高台だった。敷地は900坪で建坪が400坪もあり、部屋数は15室、プール付き。

 

 昭和32年5月、ひばり19歳の時、中区若葉町に「美之寿し」を建てて営業を開始。

 写真はそのお祝いの席で撮影されたもの。

 2019年6月24日に開催した「美空ひばりが立った磯子の劇場」座談会に登壇して美空ひばりに関する昔の思い出を語ってくれた鶴田さんは、ここで働いていた。

 寿司屋はその後、レストラン「おしどり」となり、最後はクラブに転換して消えていった。


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