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第69回いそご文化資源発掘隊 「ひばりちゃんに乾杯!2025」
(2025年5月23日開催)
開 催 日/2025年5月23日(金)
開催時間/14:00~16:30
会 場/杉田劇場4階 コスモス(リハーサル室)
参 加 者/35名
講 師/多根 雄一(元杉田劇場職員・路地裏探検家)
参 加 費/800円
◇おさえておきたい基本情報
昭和11年、飛行艇専門の横浜海軍航空隊が富岡で開隊された。昭和16年には南洋諸島を巡る大日本航空も根岸で営業をスタート。海を滑走路とする飛行艇が根岸湾上空を飛び回る時代の始まりだ。
美空ひばり(本名・加藤和枝)はそんな時代の昭和12年5月29日に滝頭の魚屋「魚増」で誕生した。
戦争が激しくなると、父親・加藤増吉が出征。その壮行会で「九段の母」を歌い、聴いていた人々を感心させたという話が残っている。音源がないので確認できないが、かなりうまかったのではないか。
増吉は芸能を好む趣味人で、ギターを弾き都々逸を歌うのが得意だった。当時としては珍しいポータブル蓄音機が家にあり、和枝ちゃんは幼い頃から流行歌のレコードを繰り返し聴いていたという。 持って生まれた才能とともに、そんな家庭環境が、のちの美空ひばりを形成していったのである。
◇加藤和枝ちゃんが生まれた時代
加藤和枝が誕生したのは昭和12年5月29日。その1年前(昭和11年)の日本はどういう状況だった年のか。
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1月 日本がロンドン海軍軍縮会議から脱退
2月 二・二六事件勃発 東京市に戒厳令布告
8月 関東軍防疫部編成(昭和16年に731部隊と改編)
11月 横浜海軍航空隊(浜空)が開隊(富岡)
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そして和枝ちゃんが生まれた年は…
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5月 加藤和枝ちゃん誕生
7月 盧溝橋事件
7月 上海で日本海軍陸戦隊と中国軍が交戦
9月 日本軍が上海に入城
11月 大本営設置
12月 日本軍が南京占領
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◇加藤和枝ちゃんが生まれた町
加藤和枝ちゃんは、前述したとおり磯子区滝頭町で、昭和12年5月29日に誕生した。この滝頭という町は、庶民が多く住んでいる古くからの下町で、周辺には日用品市場が目立つ。
刑務所跡というのは、関東大震災まであった根岸監獄(横浜刑務所)の跡地のこと。疎開道路とは、戦時中の爆撃による延焼を防止する目的で民家を壊して拡幅した道路のことで、これは強制的に行われた。間引きされた家はたまったものではなかったが、ごちゃごちゃした町中に、今では立派な広い道が残されている。
堀割川の向こう、中区側には米軍の接収地が広がっていたが、加藤和枝ちゃんがそちらまで足を延ばしたという記録は、今のところ見たことがない。堀割川は、彼女の中では国境のような存在だったのかも。和枝ちゃんの生家、鮮魚店「魚増」は通称「屋根なし市場」にあったという。この「市場」という名称に惑わされて、日用品小売市場をイメージして現在の「丸山日用品小売市場」と誤解している人たちがいる。
ここで、美空ひばりが書いた自伝から、生家のあった町内の様子を確認してみる。
狭い路地の両側に商店が並んでいたのである。路地の上は、もちろん屋根なんかない。だから「屋根なし市場」と称されていたのだ。ひばりの記憶と大下英治の取材結果を比べると、ちょっとした違いはあるが、基本的な違いはそれほどない。
『美空ひばり 追悼写真集』(近代映画 平成元年)
《ハーモニカのように並んだ店は、間口も奥行きも狭いので、軒先から道路まで品物を広げていた。通称「屋根なし市場」と呼ばれて…》
『ひばりとカラス』(原田悠里 平成9年)
《そんな歌声に、青空市場の人たちは熱狂していた》
『美空ひばり 涙の河を越えて』(小西良太郎 平成13年)
《滝頭町は横浜の低地にあった。青空市場の魚屋で肩寄せ合って…》
ここで、市場の通称が2通りあることが分かった。「屋根なし」と「青空」だ。どちらも同じ風景がイメージされる。
戦争が終わった昭和20年8月15日は、澄みきった青空が広がっていたという。
◇美空ひばりに関する資料
彼女に関する資料を横浜市図書館で検索してみた。書名の中に「美空ひばり」が入っている書籍・雑誌などが235件ヒット。それらを発行年順に並べたのが、こちらの表である。
美空ひばりが亡くなったのは平成元年6月24日。存命中に取材をし、出版されたのは235件だ。全体の5.5%しかない。多くの資料は彼女の没後に発行されている。その中でも竹中労、上前淳一郎、本田靖春、大下英治の4人が目立っている。大下英治の書籍はひばりの没後に発行されているが、取材はその前からやっていたので、この仲間に入れてもいいだろう。
◇美空ひばりの初舞台は?
さて、この4人は「ひばりの初舞台」について、どんなことを書いていたのか。出版順に見ていこう。
先駆者の竹中労は昭和40年に出した『美空ひばり 民衆の心をうたって二十年』の中で、次のように書いている。
「昭和21年4月にアテネ劇場で旗揚げ公演を行った。この劇場は風呂屋を改造した施設であった」と。竹中労が『美空ひばり……』を出版する8年前に、ひばり自身が初の自伝を出している。『虹の唄』というタイトルで、そこに「9歳の年の暮れ(注:昭和21年の暮)に風呂屋を改造したアテネ劇場で2日間出演した」と書いてあるので、竹中はこれを参考にしていたのだろう。
彼は平成17年に出した『完本 美空ひばり』でも、この説を曲げずにアテネ劇場だとしている。
続いて上前淳一郎が昭和53年に出した『イカロスの翼 美空ひばりと日本人の40年』では、昭和21年春に上大岡の大見劇場と書いている。これは新しい説だが、昭和21年に大見劇場はない。大見湯という銭湯があり、そこの湯船に板を置き舞台代わりしていたという話は残っている。これは、昭和49年に風間知彦が書いた『実録・ひばりファミリー』を参考にしているのかもしれない。
昭和62年に本田靖春が出版した『戦後 美空ひばりとその時代』では、さらに新しい情報が。美空ひばりの叔母である西村克子さんに取材した結果、初舞台は「アテネ劇場」だということだったのだが、ここは戦前からあり、市場を改造した芝居小屋「磯子劇場」だったという。
ただし、「アテネ劇場」の前身が「磯子劇場」だったという客観的証拠は発見されていない。
最後は、大下英治が平成元年に発表した『美空ひばり 時代を歌う』で書かれた記事。昭和21年9月に出演したアテネ劇場が初舞台だというのだ。アテネ劇場がオープンしたのは昭和21年9月なので、この時期と劇場の間に矛盾はないが、はたしてこの年月と場所が初舞台だったのか、疑問は残る。
◇美空ひばり初舞台に関するネット情報
さて、図書館で資料を調べたら、次はネットで調査してみよう。初舞台というと、場所・芸名がどうだったのかが問われる。
まずは場所だ。神社・寺の神楽殿、商店街の店先、映画館・劇場などといった屋根のある施設があげられる。
ここでは、3番目の「屋根のある施設」を初舞台の場所としたい。
次に、どんな名前で舞台に立ったのかだ。本名なのか、それとも芸名なのか。本名だとアマチュアの域を出ないので、芸名で出たのを初舞台としたい。それは、昭和21年の4月に杉田劇場で出演した際の「美空一枝」だ。
◇入り乱れる初舞台情報
図書館に所蔵されている資料やインターネット上に流れている情報には、明らかに間違っているものや、不確かなものが多い。
初舞台の時期は、昭和20年12月、昭和21年4月、同年9月と、3種類ある。その場所はもっと情報が多く、磯子のアテネ劇場、上大岡のアテネ劇場、野毛のアテネ劇場、上大岡の大見劇場、磯子劇場、磯子会館、杉田劇場(アテネ劇場の前身)、杉田劇場と、キリがない。
上大岡の大見劇場、これは「大見湯」のことだ。駅近くに「大見湯」があって、そこの湯船に板を敷き舞台としたという話が残っている。その銭湯がのちに大見劇場となっているので、これを混同した情報なのだろう。
野毛のアテネ劇場。これは現在、寿司屋の前に設置されているひばり像からイメージしているのかも。
このように、美空ひばりの初舞台については、間違った情報や怪しい情報が乱れ飛んでいる。
では、ひばり自身、自分の初舞台をどう、とらえていたのか。自伝や雑誌の座談会の中から調べてみる。
美空ひばり没後に出版された『平凡 永久保存版』(平成元年)。かつてのファンクラブ機関誌を引用してこんなことが書かれている。
「9つのとき横浜宝塚で初出演」
また新しい情報が出てきた。9歳の時に横浜宝塚劇場で舞台を踏んだというのだ。さらに、自分の誕生日を昭和13年4月29日と言っている。
14歳の美空ひばりは、雑誌『平凡』の座談会でこんな発言をしていた。
『初めて舞台へ立ったのは終戦の翌年(昭和21年)、杉田(映画)劇場の実演に出して貰った時』
今までいろいろな情報をあとから刷り込まれていたのだろう。ひばり自身が語っているのは、次のようにいろいろある。
・野毛のアテネ劇場で初舞台を踏む
・正確に言えば横浜国際劇場
・8つのとき、南太田のお風呂屋
・お風呂屋さんを改造したアテネ劇場
・9つのとき横浜宝塚で初出演
・終戦の翌年(昭和21年)杉田(映画)劇場
・昭和21年9月、アテネ劇場で3日間の興行
ひばり自身は本来、無口なのだが、母親の喜美枝さんがひばりに代わっていろいろと喋っていた、というひばりの話もある。(「徹子の部屋」に出演した時に打ち明けている)
昭和21年11月、オール横浜総合芸能コンクールに出場した加藤和枝ちゃんとそのバンド。バンド名は書かれていないが、ハワイアンバンドとしている。酒匂正が持っているエレキギターを見れば、ハワイアンだと分かる。ギターを平らにして膝の上の載せ、指にはボトルネックを嵌めているのだろう。これでスチールギターのような音が出せるのだ。
『美空ひばり 民衆の心をうたって20年』 (竹中労 昭和40年)には、こんなことが書いてある。
《増吉が復員した昭和20年8月末から素人楽団の編成に乗り出した。「青空楽団」を作った。昭和20年9月8日 焦土の街に明るいメロディーを流し始めた。やがて「青空楽団」は「美空楽団」と名前を変えた》
終戦は昭和20年8月15日である。それから半月ちょっと。9月8日というのは、何に基づいているのだろうか。
青空楽団という名称はありそうだ。美空楽団の前は、そう名乗っていたのかもしれない。だが、証拠がない。
『愛燦燦・ひばり神話の真実』(西村克子 平成5年)にも、やはり青空楽団が出てくる。
《増吉兄さんは、楽器のうまい青年たちを集めて、ギターの上手な酒匂正さんをリーダーにした「青空楽団」を作り》
『美空ひばり 公式完全データブック 永久保存版』(平成23年)では、昭和21年4月9日の神奈川新聞の広告を引用して、次のように書いている。
《暁第一劇団・特別出演、ミソラ楽団(青空楽団改め)、熱血ノ舞台》
広告には、(青空楽団改め)とは書いていない。著者が勝手に付け加えているようだ。
◇芸名の美空ひばり
芸名の美空ひばりという名前は、いつ、誰が、どこで付けたのか。これも、図書館で借りてきた本で調べてみた。
まず、『美空ひばり 川の流れのように』 (美空ひばり 平成2年)から。かつて出版していた自伝の焼き直しか。そこには、こう書かれている。
昭和24年1月、日劇小劇場「ラブ・パレード」に出演。この時より芸名を美空ひばりとする。
『もうひとりの美空ひばり』(小沢さとし 平成9年)。昭和23年11月、この頃より美空ひばりの芸名になる。
平成9年に原田悠里が出した『ひばりとカラス』では、昭和23年10月、日劇小劇場に出演した際、演出家の岡田恵吉に、ひばりという名をつけてもらったと書いてある。
『美空ひばり 泣くことの力』(山折哲雄 平成17年)。昭和22年、日劇小劇場「新風ショウ」に出演。このとき芸名を美空ひばりとする。
その他に、美空ひばり関係の本を調べてみると、以下のことが分かった。
昭和21年4月 旧杉田劇場 美空一枝
昭和21年9月 アテネ劇場 美空和枝
昭和22年1月 銀星座 美空和枝
昭和22年10月 日劇小劇場 美空ひばり
昭和23年1月 横浜国際劇場 美空ヒバリ
昭和23年5月 横浜国際劇場 美空ひばり
最も古い芸名は「美空一枝」だ。やはり、昭和21年旧杉田劇場に出演したときに名乗っていたもの。
◇旧杉田劇場で初舞台を踏んだ美空ひばり
『浜・海・道』を作るにあたって参考にした本が、本田靖春著『戦後 美空ひばりとその時代』である。ほかに菊屋不動産の片山さんのお話、当時、滝頭町内会長だった星野正義さんの証言などを参考にした。
その結果、いくつか正確ではない記述を載せてしまった。
≪昭和21年1月に新築され…わずか4年で閉館に≫と書いたが、ここで謝罪しておく。
営業を終えたのは昭和25年ではない。その後も続いており、劇団「葡萄座」が昭和26年4月に杉田劇場で公演をしたという記録が残っている。他にも浜中学校が昭和27年に杉田劇場で学芸会を開催していたことも分かった。これも写真と証言による。
さらに、
≪開館と同時に大高劇団が専属として迎えられ≫
……開館と同時だったのか? この部分については、今現在、まだ真相は分かっていない。
≪昭和21年9月、磯子劇場(のちのアテネ劇場)で、美空ひばりとその楽団が旗揚げ公演を行った≫
これも真偽不明である。アテネ劇場は昭和21年9月にオープンしているが、その前身が磯子劇場だったという物的証拠はない。はたして磯子劇場という施設があったのかどうか…。
≪3日間の公演を終えた美空楽団は、引き続いて杉田劇場へ売り込みにやって来た。杉田劇場での公演は3か月のロングランとなった≫
アテネ劇場で3日間の公演を行ったという証拠がない。しかも、そのあとに杉田劇場に出演したと書いてあるが、順番が逆である。「杉田」から「アテネ」へと続くのである。
どうしても「アテネ劇場が初舞台」としたい思いが見え隠れしているようだ。しかし、「杉田」に出たあと「アテネ」に出ていることは、当時の新聞広告ではっきりしている。「杉田」より前に出演しているとするならば、「アテネ」の前身が「磯子劇場」だったという真偽不明の劇場が登場するわけである。
ひばりの伯母・西村克子さんは、その著作で次のように書いている。
「戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していました…」
はたして、戦前から磯子劇場(アテネ劇場)があったのか? 地図も、写真も、西村克子さん以外の証言も、無い。
その後判明したことで最も衝撃的だったのは、旧杉田劇場の看板役者だった大高よしおの顔が判明したことである。「大高ヨシヲを探せ!」というブログで、その顔がアップされたのだ。
ブログの管理者・井上学さんは「いそご文化資源発掘隊」の講師でも活躍している。
ひばりの初舞台はどこだったのか。ひばり関連の書籍を1951年からリスト化してみた。まず1951年9月の『月刊平凡』の記事。お好み座談会でひばり自身が語っている。このとき、ひばりは14歳で、5~6年前のことだから、おそらく彼女の記憶は正しいと思われる。
しかし、その後、『自伝』や手記を見ると、いろいろ変化している。もしかしたら、あとから刷り込まれたのかもしれない。
ひばり関連資料は、彼女が亡くなった1989年以降、大下英治の『美空ひばり 時代を歌う』から「初舞台はアテネ劇場」との情報が多くなる。
「美空ひばり 初舞台」をキーワードにしてグーグルで検索すると、以下のような記述がヒットする。
AIによる概要では、
昭和20年12月 横浜市磯子区の杉田劇場(アテネ劇場の前身)で初舞台
明らかに間違っている。杉田劇場が開場したのは昭和21年1月であるし、アテネ劇場の前身でもない。
にちぶんmook『荷風!』<vol.5>では、
アテネ劇場(杉田劇場)で風呂屋を改造したもの
ここでも、アテネ劇場と杉田劇場を同一の施設だと勘違いしている。しかも、風呂屋を改造したものでもない。
コロムビアのホームページでは、
昭和20年12月 横浜市磯子区の杉田劇場(アテネ劇場の前身)で初舞台
もしかしたらAIの概要は、このページを利用しているのかもしれない。
ひばりプロダクションのホームページによると、
昭和20年12月 横浜・磯子の杉田劇場で初舞台
場所は正確なのだが、年月が間違っている。昭和21年4月が正しい。
2006年の隔週刊『美空ひばり こころの歌』あたりから「初舞台は杉田劇場」という情報が多くなる。
これらの情報に対して、旧杉田劇場の舞台幕の絵を描いた間辺典夫さんと、横浜演劇史研究家の小柴俊雄さんは、「昭和21年4月の杉田劇場」が初舞台だとしている。間辺さんは当時のことをよくご存じだし、小柴さんは横浜演劇史研究家なので、このお二人の意見が正しい情報だと思う。
新杉田駅の自動販売機に描かれている、シーサイドラインのマスコットキャラクターの「柴口このみ」※詳細はコチラ
令和3年(2021年)には『壱十五の神社と祭り』を発行。区内すべての15神社を調査して、お囃子の保存会などを取り上げた。
横書きと縦書きの編成で、横書きは鈴木美奈子さん、縦書きは小沢朗さんで、縦書きはエッセイとなっている。その主な内容は、村の鎮守/海辺の神社と山岳信仰/神輿と山車と囃子/祇園祭と疫病退散などである。この冊子も杉田劇場のHPからダウンロードして読むことができる。
根岸八幡神社の氏子エリアはかなり広い。青で囲った町は磯子区、赤が中区。中区内も広がっていて、文化圏が違う。この中区でも2つに分かれていたのだろう。その結果、根岸八幡神社の氏子エリアは3つに分かれているのだ。
昔はこの3地区が持ち回りで榊神輿を作っていたのだが、現在は中区の根岸地区だけとなった。その結果、3年に一度の開催となっているのである。
榊だけで作られた神輿だか、決して珍しいものではないことが、のちの調査で分かった。東京都昭島市や長野県佐久市でも行われているのである。
◇カーネーションと旧杉田劇場
『浜・海・道Ⅱ』では、磯子の花情報として梅ではなくカーネーションを取り上げた。
磯子の花卉栽培は、明治24年頃、杉田・中原の鉄砲ユリで始まった。明治42年には、杉田の伊澤九三吉が、その温室栽培を始めている。
カーネーションの名花「コーラル」は中原の井野喜三郎が開発。昭和6年、中原出身の井野喜三郎が家業の農業を継ぐため帰って来た。喜三郎は野菜より花に注目し、温室を作ってカーネーションの栽培を開始した。昭和13年に品種改良してコーラルを完成させた。
昭和10年頃、栗木でカーネーションの温室栽培を始めた男がいる。志村高明だ。
この名前をすっかり忘れていたが、井上学さんから「パート2」に出ている志村高明は、旧杉田劇場の舞台幕に名前を出している志村高明と同一人物ではないのか、と情報が寄せられた。そこで調査を始めた結果、いろいろなことが判明し、「いそご文化資源発掘隊」として発表することになった。
2021年12月11日に「第52回いそご文化資源発掘隊 いま明らかにされる 大正と温室の謎」と題して、バス停「温室前」、NTTケーブル名「大正」の謎を解明した。
調べてみると、「温室前」とは志村高明氏の温室だったことが判明。栗木の重鎮、曽根さんの話では、志村氏は市会議員になりたかったという。戦後初の地方選挙が昭和22年に行われたが、この時、彼は市会議員に立候補している。
この選挙では、旧杉田劇場の舞台幕の名前を出していた石橋寅四郎も立候補していた。調べてみるとこの方は工場長だったことが分かった。石川島の社員だったのかもしれない。この選挙では二人とも落選。
その4年後の昭和26年、戦後2回目の選挙が行われ、志村氏は再挑戦したが、またもや落選してしまった。その後は選挙をあきらめ、事業(建設土建業)に専念したようだ。
一方の石橋氏の住所跡には労働組合の事務所が入っていることから、彼は石川島の組合から立候補したものと考えられる。
旧杉田劇場の舞台幕に名を連ねた二人。なぜここに名前を出したのか。選挙のためだったのか、もうしばらく検証が必要だろう。
◇岡村の金魚王 水野熊吉
『浜・海・道Ⅱ』では、東洋一といわれた岡村の金魚池を取り上げ、水野熊吉氏が大正9年に、同地で金魚の養殖を開始したことを記事にした。
≪熊吉の父慶造は…≫
と書いているが、ここで謝罪しなければいけない。
『金魚の飼ひ方 輸出金魚の育成』(斎藤正之著 昭和5年)にはこんなことが書かれているのだ。
≪水野熊吉氏の談によれば同氏の祖父水野慶蔵…≫
とある。
名前の他にも、史料によっては、父、岳父、祖父と違いがある。どれが正しいのか?
慶蔵は天保10年(1839)生まれで、慶応3年(1867)に21歳で…とあるが、慶応3年には28歳になっているはず。計算が合わないが、慶蔵と熊吉の年齢差は42歳。祖父と孫の関係だったのか? 詳細は不明。
水野熊吉は金魚だけではなくイモリもアメリカに輸出していたことも分かった。イモリは食用ではなく、観賞用だったという。
1989年に横浜市が発行した『図説 横浜の歴史』。448ページに及ぶ大作で、4月1日から5万部を販売した。そこにこの様な写真が掲載されている。左は戦時中の写真で、松屋の屋上から撮影したものである。そこには大岡川や指路教会が写っている。
だが、どうも様子がおかしい。川と教会の位置関係が変なのだ。やはりこれも反転してみたら、よく見る正しい風景になった(右)。
本を作るにあたって風景写真を使う場合、どこから、どこを撮影した写真か、現場を知らないと失敗する。
また、過去の書籍は正しいのかどうかも注意が必要だ。一つの本だけを参考にしてしまうと、危険が付きまとう。ネット上には間違った情報も溢れている。AIが作った小説も出てきた。本も「AI」もそのまま信用できない。複数の資料にあたらなければいけないということを、『浜・海・道』作成で学ぶことができた。
あとは製本にも注意が必要だ。『浜・海・道』は無線綴じで失敗してしまった。コピーを重ねるとバラバラになるのだ。販売する分にはいいけど、図書館向きではなかった。
今日のお話も、はたして本当なのか?
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