第68回いそご文化資源発掘隊 磯子のおもしろ郷土史『浜・海・道』を深掘りする
(2025年3月7日開催)
開 催 日/2025年3月7日(金)
開催時間/14:30~17:00
会 場/杉田劇場4階 コスモス(リハーサル室)
参 加 者/55名
講 師/ 多根雄一(元杉田劇場職員・路地裏探検家)
参 加 費/800円
◇『浜・海・道』の発行
磯子区役所統計選挙係で働いた昭和62年に区制60周年を迎え、周年事業費が計上された。この予算を使って、今までとは違う「統計便覧」を作りたいと考えた。
総務課には昭和30年代の素晴らしい写真が保管されていた。さらに、区民から昔の写真やエピソード、忘れられている歴史などを集め、これらをまとめて販売できる本を作成することにした。
募集のチラシを町内会の各班回覧に回したが、集まった写真は昭和30年代が中心で、あとは大正時代から昭和初めの頃で、昭和10年代が無い。
なぜか? この辺は東京湾要塞地帯で写真を撮影するのは、横須賀の鎮守府の許可が必要だった。それでも、写真はないが昔の話が集まってきた。
それらを確認するため、市史編集室に通い、横浜貿易新報や神奈川新聞を総めくりして調査をした。
◇海のある風景
まずは本書の1ページ目。「海のある風景」というタイトルをつけて、海なしでは語れない「磯子」を簡単に描いてみたが、ここで真偽が不十分なままの情報を載せてしまった。
≪かつて、根岸湾を「ミシシッピー・ベイ」と呼んでいた時期がある。本牧から富岡まで自然の海岸が続き、その美しく湾曲した姿がミシシッピー湾と似ているため、そう名付けられたという≫
当時はこの話がしばしば語られていた。そのため詳しく調べないまま書いてしまったが、平成16年4月に発行された『開港のひろば』を読んで、この記述が間違っていたことに気がついた。そこには、こんなことが書かれていたのである。
≪湾にはほとんどペリー艦隊の艦船の名がつけられている。ミシシッピー湾、ポーハタン湾、サスケハナ湾といった具合である≫
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/084/084_02_03.html
完全に間違っていた。当時の編集担当者として、ここで謝罪しておく。
◇磯子区の誕生
昭和2年4月1日、横浜市は隣接する2町7村を合併した。これにより面積は4倍になった。屛風ヶ浦村(森・森中原・杉田)と日下村(矢部野・栗木・田中・上中里・氷取沢・峰)は、このとき横浜市に合併された。
そのため、同年10月1日、横浜市は5つの行政区をつくり、ここで磯子区が誕生した。その際、根岸町の中に磯子区と中区の境界線が入れられ、町が分断されてしまった。根岸町の東側が中区に所属し、町名はそのまま中区根岸町となったのに対し、西側は磯子区西根岸町とされたのである。
さて、磯子区ができると、初代区長として近澤定吉が任命された。彼は明治19年(1886)に京都で生まれている。若い頃は商店に勤めていたが、大正7年(1918)、32歳で横浜市に採用された。最初の所属は不明だが、のちに商工課長となり、区制施行と同時に磯子区長に任命された。
『横浜商工彙報』第8號(横浜市商工課 編 大正12年)によると、近澤氏は大正11年4月、市会議員に随行して中国に視察出張している。また、『横浜市家内工業調査委員会誌』 (昭和4年)にも彼の名が登場する。大正から昭和にかけて、市内の小学校や隣保館で家内工業普及講演会が開催されており、そこで何度も講演をしているのだ。磯子区長になった翌年にも家内工業調査委員会幹事として滝頭小学校で登壇していることから考えて、商工関係を専門にする職員だったのかもしれない。これは当時の職員録を調べれば、何かわかるだろう。
初期の小さな埋立はいくつかあるが、中でも有名なのが葦名金之助の埋立だ。『磯子の史話』によると、海岸沿いに平坦な道路を造ろうとした葦名金之助が、東京の大手建設業者・安藤庄太郎の資金援助を受けて、浜から今の区役所までの海岸を埋め立てた、ということになっている。
『浜・海・道』でもこの資料を基にして同様のことを書いてしまったが、その後の調査で新しい資料が出てきた。安藤庄太郎の子孫の安藤安則氏が書いた『Roots』という冊子である。そこでは、埋立を発案し許可申請を出したのは安藤庄太郎であり、その安藤氏から地元の取りまとめを依頼されたのが葦名金之助だということが、神奈川県庁の埋立許可などの資料とともに紹介されている。
もう一つ、新たに分かったことがある。大正時代、現在の浜中学校前の山を掘削しトンネルを造り、その土砂で杉田海岸の一部を埋め立てているが、このトンネルの名称が判明したのだ。これは過去の資料からではなく、関東大震災で崩落したトンネルの一部が発見されたのである。そこに名称が彫られていた。
当時、トンネルの近くで営業していた理髪店の方がこれを保管しており、その後、町内会長や地元の歴史好きの方などを経て、上中里地区センターに届けられ、現在はそこで保存されている。これによってトンネルの名称が「貝塚隧道」であることが判明した。
◇水族館があった
『浜・海・道』を作成するにあたり地元の方々から昔の話を聞いているとき、昭和3,4年頃、バブコックのあたりに水族館があったということを知った。上野公園に水族館がオープンするのが昭和7年で、磯子にはそれより前にあったというのだ。
しかし、写真も資料もない。そこで県立金沢文庫まで足を延ばして資料を探すことになり、以下のことが分かった。
昭和3年、東京で大礼記念博覧会が開催され、当時ここに水族館が造られていた。博覧会が終了すると、これを横浜に移設したいという男が現れた。大連市商工会議所議員の平田包定である。
ちょうどその頃、横浜市と水産会も水族館を作りたいと思っていた。元町・磯子・杉田から選定し、最終的に磯子が選ばれた。昭和5年の「火災保険図」に記載されているし、昭和6年の「土地宝典」にも紹介されている。
横浜水族館は昭和3年8月にオープンした。場所は磯子区役所の裏である。
その後の調査で、以下のことが分かってきた。『大連物語』(木村遼次 著 謙光社, 1973)によると、平田包定は岐阜大垣の出身で、セイコー舎で働き時計の世界に入った。やがて日露戦争が勃発し満州へ。そこで時計の修理などをしていた。
戦争が終わって歌舞伎座を経営。ここで興行の世界に入っていく。大正2年、時計屋を開業。大連の誰もが認める時計商になった。
その後、水族館をあちこちでオープンさせている。歌舞伎座の経営で培った興行の手腕を発揮したという。昭和12年6月6日に逝去している。
◇太平洋無着陸横断飛行のタコマ号
佐藤昭一さんから昭和5年に撮影した市電埋立地(堀割川河口)における飛行機の写真が持ち込まれた。太平洋無着陸横断飛行に挑戦したタコマ号の写真だという。 編集部としてはこの情報が正しいのかどうか、資料を探しに市史編集室や中央図書館に通った。その結果、当時分かったことは…
昭和2年5月、リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功し、今度は太平洋だ!という機運が盛り上がり、アメリカ人のブロムリー中尉とゲッティもアメリカ側から日本に向けて挑戦していた。彼らは何度も失敗した結果、今度は偏西風を利用して日本からアメリカへと切り替えた。
昭和5年8月8日、横断飛行に使う「タコマ号」を積んだプレジデント・リンカーン号が横浜港に入港。機体は立川に保管する。
やがて霞ケ浦をスタート地点とすることを決定。そこまで機体を陸送することは困難であると判断し、横浜から霞ケ浦まで飛行することにした。立川に保管していた機体を分解して市電埋立地に運び込み、そこで組み立てることに。
8月17日(日)、午前9時には1万人の見物客が現地に押し寄せ、県知事、横浜市長が祝辞を述べたが、なかなか飛ばず飛行をあきらめた。南風が吹かないとダメだったのである。
翌日、この日も南風が吹かず、出発を断念。そして、さらに翌19日、午前11時55分、念願の南風が吹き、とうとう離陸することができた。
霞ケ浦でいろいろ調整をして8月30日、いよいよアメリカに向けて霞ケ浦を離陸。しかし、ガソリンが重すぎて舞い上がれず失敗してしまった。
それでもあきらめない二人は新たな離陸地点として青森県淋代海岸を選んだ。
9月14日早朝、約800人の村民に見送られて、とうとう離陸に成功。しかし、この後、タコマ号はカムチャッカ沖の上空で猛烈な乱気流と戦うことに。アリューシャン列島付近で濃霧に見舞われ、さらに、パイプを破損しガスが操縦席まで入り込んできた。彼らは仕方なく日本に引き返すことに。9月15日、残ったガソリンを放出し尻労海岸に不時着。
ここまでが『浜海道』で書いたことだ。
この記事の中で不時着した尻労海岸という地名にルビを付けたのだが、実はそのルビが間違っていたことが後に判明した。「しろう」ではなく「しっかり」「しつかり」だったのである。謝罪する。
◇太平洋無着陸横断飛行 その後のタコマ号
昭和6年春、アッシュというアメリカ人が横浜へやってきた。彼はタコマ号を修理して「パシフィック号」と名付け、太平洋無着陸横断飛行に挑戦。群衆の見守るなか滑走を開始したが離陸できず失敗してしまった。
同年9月、今度はアレンとモイルの二人がやって来た。「パシフィック号」をさらに改造し「クラシナマッジ号」と名づけ挑戦。
9月8日、今度は離陸に成功! ところが、ガソリンが漏れ出し、さらに暴風雨の中に突っ込んでしまった。ここで、やむなく「無着陸」を断念し、無人島に不時着することに。二人は消息不明となり、アメリカでは大騒ぎになっていたが、その間、彼らは鳥や貝を採り飢えをしのいでいた。無人島に着いて4日目、人家のある島を探して飛び立ち、ガソリンを得てノーム、ソロモンビーチ、フェアバンクスを経て10月6日夕方、とうとうタコマ市に着陸した。「タコマ号」として磯子の埋立地を出発して1年以上の歳月が流れていた。
アレン・モイル組がタコマ市に帰着する2日前に淋代海岸を飛び立った挑戦者がいた。パングボーンとハーンドンが乗った「ミス・ビードル号」である。
10月6日朝、ワシントン州ウエナッチに胴体着陸し、無着陸横断飛行に一番乗り!
「クラシナマッジ号」と同じ10月6日であったが、こちらの方が数時間早かった。
三沢市では「ミス・ビードル号」は三沢のシンボルとなっている。一番乗りだから当然なのかもしれないが、私はボロボロになりながらも、タコマ市にたどり着いた初挑戦の「タコマ号」の方に愛着を感じる。
さらに、その後、こんなことも判明した。
淋代海岸から飛び立った飛行機には三沢村民からの食糧が積み込まれていた。昭和7年、アメリカのウエナッチ市より青森県りんご試験場へ、リチャードデリシャスの苗木が送られてきた。淋代海岸から飛び立った4組の飛行家たちには、機内で食べられるようにと、弁当に添えて青森産のリンゴが提供されていたのだが、苗木はその時のお礼ということだった。
その後、青森県りんご試験場では、デリシャス系のリンゴ栽培が始まった。
◇銭湯の変遷
戦時中、大日本航空に勤務していた桑原一郎さんから、飛行艇の情報をいただいた。通信士として飛行艇に乗っていたというのだ。写真はないが記憶を語ってくれた。
当時、日本は南洋諸島を委任統治領としていた。その島々を回るには普通の飛行機では無理。海を滑走路とする飛行艇がふさわしかったのだ。
昭和11年10月1日、海軍横浜航空隊(浜空)が富岡町で開設された。浜空ができて間もなくの昭和13年、民間の大日本航空が創立された。
ここで謝罪!大日本航空(現・日本航空)と書いてしまったが、これは間違いで、両者は直接的なつながりはない。
昭和14年、浜空の指導により大日本航空の飛行訓練が始まった。富岡からサイパン経由でパラオに向けて第一便が出発。昭和15年、根岸に大日本航空の飛行場が完成し、こちらに引っ越し。根岸からの第1便が、パラオへ向けて離水した。
桑原さんは、戦争が終わるまでの出来事をいろいろ語ってくれたが、その中に映画「南海の花束」の話もあった。しかし、彼はそのあらすじを間違って記憶していたため、私は聞いた話をそのまま記事にしてしまった。
ここで謝罪! 正しいあらすじは→コチラから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B7%E3%81%AE%E8%8A%B1%E6%9D%9F
大日本航空の飛行艇のパイロットだった越田利成さんが『南海の銀翼』というタイトルで、当時の記録をまとめている。その中に興味深い話が書かれている。
大日本国空の乗組員たちだけではなく、横浜海軍航空隊(浜空)のパイロットたちも、芦名橋の花街に通っていたようだ。
待合「多津奈」で呑んでいた時、やけにしんみりしていた。向こうの部屋で浜空の隊員が呑んでいるのだが、残存している飛行艇3機を使って、2日後に戦地に向かうとのこと。すでに1番機は硫黄島の手前で南の空に散っていた。
越田さんたちは浜空隊員たちにビールを差し入れしてあげた。酒をもらった浜空隊員たちが越田さんたちを招き入れ、一緒に呑み始めた。2日後、2番機が根岸湾から飛び立ったが、父島周辺で撃墜された。翌朝、3番機が飛び立ったが、哀れ南海の藻屑となり海中に沈められてしまったという。
◇銭湯の変遷
花街で働く芸妓たちが通っていた「芦名湯」や「報国湯」。当時は磯子区内に沢山の銭湯があった。それが『浜・海・道』制作時には相当数が減少していた。当時、まだ現役で稼働していた「芦名湯」を訪ね、その歴史などを取材し記事にした。
昭和初期には、滝頭・丸山と杉田・中原方面に銭湯が固まっていた。昭和60年代になると減少し、令和6年には3軒しか残っていない。
2018年、杉田・中原地区に残っていた最後の銭湯「杉田湯」を訪問した。杉田湯、グーグルマップでは磯子湯と記載しており、ストリートビューでは見ることができない路地裏にあった。左が女湯で右が男湯。真ん中には傘入れがあった。女将さんの話では昭和30年代からの営業だという。
男湯のペンキ絵に描かれているのは富士山。女湯は石川県の見附島である。やはり銭湯の経営者には石川県が多いという話と関係あるのかもしれない。
昭和34年の磯子区明細地図を見ると、この場所にある建物は浴場と標記されているが、銭湯名がない。浴場のあるエリアには石川島の寮があり、さらに報国荘と湘友荘というアパートみたいな建物があった。もしかしたら、これらの建物に住む人たちの共同浴場だったのかもしれない。
次回来たら、この銭湯の歴史を聞こうと思っていたのだが、なんと、2019年の夏に閉業していた!
杉田湯があった敷地内の「報国荘」と「湘友荘」とは何だったのだろうか? 調べていくと、横浜市が発行していた『市民グラフヨコハマ』で「報国荘」と「湘友荘」をイラストで紹介していた。
それによると、戦時中は軍需工場の工員寮だったのだが、戦後、役所がこれを借り上げ木造共同住宅として、戦争被害者に貸していたという。ほとんどの住人が終戦直後にやって来た。
廊下を挟んで両側に各戸が並び、どれも10畳一間だ。最盛期は両方合わせて270世帯が住んでいた。『市民グラフヨコハマ』発行時には賃貸ではなく、持ち家になっていたそうだ。
◇旧杉田劇場で初舞台を踏んだ美空ひばり
『浜・海・道』を作るにあたって参考にした本が、本田靖春著『戦後 美空ひばりとその時代』である。ほかに菊屋不動産の片山さんのお話、当時、滝頭町内会長だった星野正義さんの証言などを参考にした。
その結果、いくつか正確ではない記述を載せてしまった。
≪昭和21年1月に新築され…わずか4年で閉館に≫と書いたが、ここで謝罪しておく。
営業を終えたのは昭和25年ではない。その後も続いており、劇団「葡萄座」が昭和26年4月に杉田劇場で公演をしたという記録が残っている。他にも浜中学校が昭和27年に杉田劇場で学芸会を開催していたことも分かった。これも写真と証言による。
さらに、
≪開館と同時に大高劇団が専属として迎えられ≫
……開館と同時だったのか? この部分については、今現在、まだ真相は分かっていない。
≪昭和21年9月、磯子劇場(のちのアテネ劇場)で、美空ひばりとその楽団が旗揚げ公演を行った≫
これも真偽不明である。アテネ劇場は昭和21年9月にオープンしているが、その前身が磯子劇場だったという物的証拠はない。はたして磯子劇場という施設があったのかどうか…。
≪3日間の公演を終えた美空楽団は、引き続いて杉田劇場へ売り込みにやって来た。杉田劇場での公演は3か月のロングランとなった≫
アテネ劇場で3日間の公演を行ったという証拠がない。しかも、そのあとに杉田劇場に出演したと書いてあるが、順番が逆である。「杉田」から「アテネ」へと続くのである。
どうしても「アテネ劇場が初舞台」としたい思いが見え隠れしているようだ。しかし、「杉田」に出たあと「アテネ」に出ていることは、当時の新聞広告ではっきりしている。「杉田」より前に出演しているとするならば、「アテネ」の前身が「磯子劇場」だったという真偽不明の劇場が登場するわけである。
ひばりの伯母・西村克子さんは、その著作で次のように書いている。
「戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していました…」
はたして、戦前から磯子劇場(アテネ劇場)があったのか? 地図も、写真も、西村克子さん以外の証言も、無い。
その後判明したことで最も衝撃的だったのは、旧杉田劇場の看板役者だった大高よしおの顔が判明したことである。「大高ヨシヲを探せ!」というブログで、その顔がアップされたのだ。
ブログの管理者・井上学さんは「いそご文化資源発掘隊」の講師でも活躍している。
ひばりの初舞台はどこだったのか。ひばり関連の書籍を1951年からリスト化してみた。まず1951年9月の『月刊平凡』の記事。お好み座談会でひばり自身が語っている。このとき、ひばりは14歳で、5~6年前のことだから、おそらく彼女の記憶は正しいと思われる。
しかし、その後、『自伝』や手記を見ると、いろいろ変化している。もしかしたら、あとから刷り込まれたのかもしれない。
ひばり関連資料は、彼女が亡くなった1989年以降、大下英治の『美空ひばり 時代を歌う』から「初舞台はアテネ劇場」との情報が多くなる。
「美空ひばり 初舞台」をキーワードにしてグーグルで検索すると、以下のような記述がヒットする。
AIによる概要では、
昭和20年12月 横浜市磯子区の杉田劇場(アテネ劇場の前身)で初舞台
明らかに間違っている。杉田劇場が開場したのは昭和21年1月であるし、アテネ劇場の前身でもない。
にちぶんmook『荷風!』<vol.5>では、
アテネ劇場(杉田劇場)で風呂屋を改造したもの
ここでも、アテネ劇場と杉田劇場を同一の施設だと勘違いしている。しかも、風呂屋を改造したものでもない。
コロムビアのホームページでは、
昭和20年12月 横浜市磯子区の杉田劇場(アテネ劇場の前身)で初舞台
もしかしたらAIの概要は、このページを利用しているのかもしれない。
ひばりプロダクションのホームページによると、
昭和20年12月 横浜・磯子の杉田劇場で初舞台
場所は正確なのだが、年月が間違っている。昭和21年4月が正しい。
2006年の隔週刊『美空ひばり こころの歌』あたりから「初舞台は杉田劇場」という情報が多くなる。
これらの情報に対して、旧杉田劇場の舞台幕の絵を描いた間辺典夫さんと、横浜演劇史研究家の小柴俊雄さんは、「昭和21年4月の杉田劇場」が初舞台だとしている。間辺さんは当時のことをよくご存じだし、小柴さんは横浜演劇史研究家なので、このお二人の意見が正しい情報だと思う。
新杉田駅の自動販売機に描かれている、シーサイドラインのマスコットキャラクターの「柴口このみ」※詳細はコチラ
令和3年(2021年)には『壱十五の神社と祭り』を発行。区内すべての15神社を調査して、お囃子の保存会などを取り上げた。
横書きと縦書きの編成で、横書きは鈴木美奈子さん、縦書きは小沢朗さんで、縦書きはエッセイとなっている。その主な内容は、村の鎮守/海辺の神社と山岳信仰/神輿と山車と囃子/祇園祭と疫病退散などである。この冊子も杉田劇場のHPからダウンロードして読むことができる。
根岸八幡神社の氏子エリアはかなり広い。青で囲った町は磯子区、赤が中区。中区内も広がっていて、文化圏が違う。この中区でも2つに分かれていたのだろう。その結果、根岸八幡神社の氏子エリアは3つに分かれているのだ。
昔はこの3地区が持ち回りで榊神輿を作っていたのだが、現在は中区の根岸地区だけとなった。その結果、3年に一度の開催となっているのである。
榊だけで作られた神輿だか、決して珍しいものではないことが、のちの調査で分かった。東京都昭島市や長野県佐久市でも行われているのである。
◇カーネーションと旧杉田劇場
『浜・海・道Ⅱ』では、磯子の花情報として梅ではなくカーネーションを取り上げた。
磯子の花卉栽培は、明治24年頃、杉田・中原の鉄砲ユリで始まった。明治42年には、杉田の伊澤九三吉が、その温室栽培を始めている。
カーネーションの名花「コーラル」は中原の井野喜三郎が開発。昭和6年、中原出身の井野喜三郎が家業の農業を継ぐため帰って来た。喜三郎は野菜より花に注目し、温室を作ってカーネーションの栽培を開始した。昭和13年に品種改良してコーラルを完成させた。
昭和10年頃、栗木でカーネーションの温室栽培を始めた男がいる。志村高明だ。
この名前をすっかり忘れていたが、井上学さんから「パート2」に出ている志村高明は、旧杉田劇場の舞台幕に名前を出している志村高明と同一人物ではないのか、と情報が寄せられた。そこで調査を始めた結果、いろいろなことが判明し、「いそご文化資源発掘隊」として発表することになった。
2021年12月11日に「第52回いそご文化資源発掘隊 いま明らかにされる 大正と温室の謎」と題して、バス停「温室前」、NTTケーブル名「大正」の謎を解明した。
調べてみると、「温室前」とは志村高明氏の温室だったことが判明。栗木の重鎮、曽根さんの話では、志村氏は市会議員になりたかったという。戦後初の地方選挙が昭和22年に行われたが、この時、彼は市会議員に立候補している。
この選挙では、旧杉田劇場の舞台幕の名前を出していた石橋寅四郎も立候補していた。調べてみるとこの方は工場長だったことが分かった。石川島の社員だったのかもしれない。この選挙では二人とも落選。
その4年後の昭和26年、戦後2回目の選挙が行われ、志村氏は再挑戦したが、またもや落選してしまった。その後は選挙をあきらめ、事業(建設土建業)に専念したようだ。
一方の石橋氏の住所跡には労働組合の事務所が入っていることから、彼は石川島の組合から立候補したものと考えられる。
旧杉田劇場の舞台幕に名を連ねた二人。なぜここに名前を出したのか。選挙のためだったのか、もうしばらく検証が必要だろう。
◇岡村の金魚王 水野熊吉
『浜・海・道Ⅱ』では、東洋一といわれた岡村の金魚池を取り上げ、水野熊吉氏が大正9年に、同地で金魚の養殖を開始したことを記事にした。
≪熊吉の父慶造は…≫
と書いているが、ここで謝罪しなければいけない。
『金魚の飼ひ方 輸出金魚の育成』(斎藤正之著 昭和5年)にはこんなことが書かれているのだ。
≪水野熊吉氏の談によれば同氏の祖父水野慶蔵…≫
とある。
名前の他にも、史料によっては、父、岳父、祖父と違いがある。どれが正しいのか?
慶蔵は天保10年(1839)生まれで、慶応3年(1867)に21歳で…とあるが、慶応3年には28歳になっているはず。計算が合わないが、慶蔵と熊吉の年齢差は42歳。祖父と孫の関係だったのか? 詳細は不明。
水野熊吉は金魚だけではなくイモリもアメリカに輸出していたことも分かった。イモリは食用ではなく、観賞用だったという。
1989年に横浜市が発行した『図説 横浜の歴史』。448ページに及ぶ大作で、4月1日から5万部を販売した。そこにこの様な写真が掲載されている。左は戦時中の写真で、松屋の屋上から撮影したものである。そこには大岡川や指路教会が写っている。
だが、どうも様子がおかしい。川と教会の位置関係が変なのだ。やはりこれも反転してみたら、よく見る正しい風景になった(右)。
本を作るにあたって風景写真を使う場合、どこから、どこを撮影した写真か、現場を知らないと失敗する。
また、過去の書籍は正しいのかどうかも注意が必要だ。一つの本だけを参考にしてしまうと、危険が付きまとう。ネット上には間違った情報も溢れている。AIが作った小説も出てきた。本も「AI」もそのまま信用できない。複数の資料にあたらなければいけないということを、『浜・海・道』作成で学ぶことができた。
あとは製本にも注意が必要だ。『浜・海・道』は無線綴じで失敗してしまった。コピーを重ねるとバラバラになるのだ。販売する分にはいいけど、図書館向きではなかった。
今日のお話も、はたして本当なのか?
横浜市磯子区民文化センター 杉田劇場
〒235-0033 神奈川県横浜市磯子区杉田1-1-1 らびすた新杉田4F
TEL:045-771-1212(開館時間 9:00〜22:00) FAX:045-770-5656
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令和7年7月1日から杉田劇場のメールアドレスは info@team-sugigeki.com に移行いたします。
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