第65回いそご文化資源発掘隊 暗渠探索の愉しみ パート3
安藤川・芦名川
(講座編:2024年5月17日開催/探索編:5月22日・23日開催)
開 催 日/【講座編】2024年5月17日(金)
【探索編】 同 5月22日(水)・23日(木)
開催時間/【講座編】14:00~16:00
【探索編】13:00~15:30
会 場/【講座編】杉田劇場4階 コスモス
(リハーサル室)
参 加 者/【講座編】24名
【探索編】20名(2日間のべ)
講 師/ 多根雄一(元杉田劇場職員/暗渠呑ミスト)
参 加 費/【講座編】700円
【探索編】500円
山川トンネルは手掘りで掘ったことで、トンネル内は補強もせずそのままの状態だったと思われる。嵐のときには海側の出入り口から海水が入り込み、数年で使用できなくなってしまったと言われている。
これに代えて造られたのが神奈川県施工の間坂トンネルである。竣工年は『磯子の史話』によると明治17年とされているが、郷土史家の葛城峻さんの『磯子郷土史ネットワーク』によると、工事開始が明治19年で竣工したのは明治22年という。後者は横浜開港資料館の研究員の話が出典となっているので、おそらくこちらが正しいのだろう。
旧道から間坂トンネルをくぐり、森の海岸に出て杉田方面に行くというルートが完成したが、このトンネルも暗くて危ないということから、やはり海岸沿いに道を造る必要性が高まってきた。
そこで、磯子の海岸を埋め立てようという人たちが現れる。『磯子の史話』などを読むと、芦名金之助が埋立を計画し、東京の安藤庄太郎が資金援助した、という話が出てくるのだが、はたして本当にそうだったのだろうか。
明治41年3月10日の横浜貿易新報に「磯子埋立地開通式」との見出しを付けて、以下のような記事が出た。
土木請負業安藤庄太郎氏は数年前磯子隧道所在地山林数町歩を買取りたる際一時、同隧道の拡鑿を企画せしも寧ろ東端の山を削りて屏風浦海面の埋立を為すにしかずと心付きその筋の許可を得て去る39年中より埋立に着手しこのほど既に約三万坪を得たるを以て従来交通に不便を感ぜし隧道に代えて新たに道路敷地延長約6町ほどを寄付することとなり茲に既通の富岡新道と共に横浜より金沢に達する街道の難所を断ち交通上に至便を与ふる…(略)…右披露の為め8日午後3時より同埋立地に於いて開通式を挙行し起業者安藤氏の式辞に次いで…
磯子の海岸を埋め立てて、得られた土地の一部を道路用地として神奈川県に寄付をしたというのだ。ここには葦名金之助の名は出てこない。
磯子の埋立に関する記事は、大正3年7月28日付の横浜貿易新報にも掲載された。しかし、明治41年3月10日の横浜貿易新報は今を伝えるニュースであったのに対し、こちらは磯子の名勝を伝える特集の中で葦名金之助を紹介するという形を取っている。それによると……
明治36年2月、間坂山から根岸湾を眺める人がいて、土地が狭く、道が険しいことを嘆いている。彼は海の深さや土質の硬軟を検分し破顔一笑、飄然として去れりと、まるで講談のような文章で記事が書かれている。
これが埋立の創業者・葦名金之助だというのである。彼は根岸の「近栄洋品店」主人の飯島栄太郎や東京安藤組主人の安藤庄太郎らの協力を得て出願し、明治37年に埋立許可を得たとある。
これは大正6年に発行された『横浜社会辞彙』に載った葦名金之助の項目。それによると…
明治元年5月18日、東京の千住で岩田太右衛門の4男として出生。済生学舎で医学を専攻した。 実家は畳屋薬の本舗だったので、家業を広告などで宣伝しようと考えるも父兄の反対に遭い家を出る。
明治33年頃、「近栄」主人の飯島栄助が所有する磯子村の土地を譲り受け、単独で埋立に着手し一年で完成させる。これが磯子町埋立の嚆矢である。
翌年、知人の建築請負人・安藤庄太郎と共同で磯子海岸の埋立を計画。第1回は22,700坪、第2回は12,000坪、この埋立には5年かかった。
第3回は明治41年に単独で33,800坪の埋立に着手し、明治44年に完成。山を開き道を造り、橋梁を架設。
大正3年の貿易新報では、≪安藤庄太郎の協力を得て≫、ということになっているが、こちらでは≪安藤庄太郎と共同で≫とされている。
大正9年から書かれ始めた『横浜市史稿』では、明治32年に安藤庄太郎と葦名金之助が出願とある。二人が連名で埋立て計画を出したというのだ。場所は磯子浜及び間坂で面積は111,300坪、大正3年に竣工とされている。
また、昭和26年発行の『横浜歴史年表』には、明治32年に安藤庄太郎と葦名金之助が磯子浜及び間坂地先の海岸埋立に着手し、大正3年に竣工したと書かれている。
『横浜今昔』(昭和32年)によると、埋立は明治40年ごろに始められ、大正2年に完成した。埋め立てた場所は電車道と旧道の別れ道から森まで…(略)…埋立工事は東京の安藤組によって完成されたものだが、その関係で埋立地は安藤氏個人の土地が多かった。安藤組の下請けをした人に横浜の葦名金之助氏がいる。とあり葦名氏は安藤組の下請けだったという。
『横浜市会史第2巻』 (昭和58年)によると、明治32年に安藤庄太郎と葦名金之助が出願し大正3年に完成。面積は111,300坪で埋立地は磯子町字間坂及び浜に編入したとある。
こうして各種史料を見ていくと、まったく違うことが書かれていて、何が本当なのか分からなくなる。
これまで見てきた史料には具体的な裏付けがなかったが、ここにきてこんなものが出てきた。埋立に関する神奈川県が発行した命令書だ。
安藤橋の親柱近くにある食事処「ひぜんや」(閉店)に置いてあった『Roots』という資料の中にこれがあったのである。著者は安藤安則氏。安藤庄太郎の関係者で、店内には根岸湾と埋立前の間坂付近が描かれた地図が掲示されていた。
この史料によると、安藤庄太郎が明治39年8月29日付で願いを出した屏風浦村地先の埋立を許可したので、受書を差し出すようにということが書かれている。これにより、埋立ての許可願を出したのは安藤庄太郎であり、場所は間坂地先の7,440坪であることが確認できた。
さらに先を読むと≪埋立工事は着手より満三か年以内の竣工≫
≪道路・物揚げ場は官有地に他は民有地に≫という条件も分かった。
安藤安則氏の本書に書かれていることをまとめると、こうなる。
明治39年に安藤庄太郎が埋立を願い出て、明治40年に神奈川県が7,440坪の埋立を許可した。安藤庄太郎の息子の徳之助が埋立の協力者として芦名金之助を得て、安藤の名代として芦名が地元を説得して完成させたという。
こちらではさらに、橋梁の架設に関する許可も紹介している。安藤庄太郎が明治45年7月25日付で出願した浜埋立地内の橋梁架設工事を神奈川県が許可したのは大正2年1月16日だった。
浜埋立地というから、この橋梁は芦名橋のことと思われる。神奈川県の出した指令書の最後にはこんな条件が書かれている。
明治38年6月10日付及明治41年10月1日付及明治44年11月11日付提出請書ニ基キ道路橋梁工事竣功ノ上ハ同用地ニ対シ上地ノ手続ヲ為スベシ
この請書をどうとらえるか解釈が分かれるかもしれない。3つの請書が書かれているが、これは橋梁の架設ではなく埋立の請書だろう。ということは、埋立工事は3つに分けて行われたのか。
長屋門のある家の前を左に道なりに進んで行くと、途中、民家の擁壁にこんな石積みが現れた(左上写真)。何となく昔の護岸のように見える。その先には常にしみ出る水があった(写真右上)。水が豊富なエリアのようだ。
坂を上り詰めた所に到着すると、こんな水場があった(左下写真)。その奥には水路も見られたが、先は谷戸の奥ということで、ここから引き返す。
間坂に安藤橋の親柱が2本残っている。安藤川暗渠の探索はここから遡行するのだが、その前に橋跡の確認をする。
まず、講座編でも語ったことだが、安藤橋が架けられるもととなった間坂の埋立はいつできたのかを再度確認しておこう。
『横浜市史稿』政治編3 大正3年竣工
『横浜歴史年表』大正3年
『横浜今昔』大正2年に完成
『横浜市会史第2巻』大正3年に完成
『磯子の史話』大正3年に完成
『横浜貿易新報(大正3年7月28日)』大正元年に竣工
『横浜貿易新報 (明治44年3月10日)』 明治41年
『横浜社会辞彙』 明治44年に完成 橋梁を架設
『Roots』(安藤安則) 明治41年 磯子・杉田間の新道完成
『横浜の埋立』 竣工年不明
史料によって微妙な違いがあるが、おおむね大正3年頃に埋立てが完成としている。
芦名川と同じように屈曲した細い路地をすすんで行くと、右側に日枝大神に向かうさらに細い路地があった。ここで見たのは、芦名川と同じような昔の護岸らしき石積み。
ということで、今回対象となった2本の川のまとめ。
芦名川も安藤川も埋立前は無名の川だった。やがて磯子地先の埋立によって県道(現在の国道16号線)完成。これによって道路が開通し橋が架けられた。
この橋名に二人の名をつけると、川の名称も芦名川と安藤川になった。二つの川の源流は汐見台で、湧出した水は山田谷戸と山王谷戸を流れて行った。
横浜は丘陵と谷戸の都市とも言われている。丘の上に住んでいる人たちにとっては坂が多くて不便なので、中区本牧では222系統という小さなバスが上まで走るようになった。磯子区の杉田でも大谷団地へ行く小型の循環バスができている。
そんな丘陵と谷戸という地形はさまざまな恩恵をもたらしていた。丘陵から流れ出た水が谷戸で川となり周囲の田んぼを潤してきた。流域ではそれを飲み水や染物の布洗いなどで利用してきたし、栄養豊富な水は根岸湾に注ぎ、沿岸部の漁業を支えてきた。
一方で、横浜は丘と谷戸の都市であることから、原爆を落とされなかったという経緯もある。戦時中、アメリカは日本のどこに落とすかを検討している。条件は東京と長崎の間で人口が集中している直径4.8km以上の広さのある都市で、なおかつ大規模な空襲を受けていない都市ということで、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、福岡など17都市が候補にあがっていた。
やがて京都、広島、横浜、小倉、新潟の5都市に絞られる。当時の横浜は、重要な目標施設が大きな水面によって隔離されている、日本中でもっとも厳重な対空砲火集中地帯の中にある、丘陵が多く、原爆の破壊効果が測定しにくいということから横浜は候補から除外された。
その代りに用意していたのが5月29日の横浜大空襲だったが…。
【暗渠探索の愉しみ】
散歩の途中、買い物の行き帰りなどでは、その道だけではなく、交差する路地も何気なく観察したい。もしかしたら、そこで暗渠サインが見つかるかもしれないからだ。暗渠サインというのは、「ここは昔、水路や川だったのではないか」と思わせる風景、物体、店舗などである。
たとえば川も橋もないのに親柱や欄干だけがある、細くて曲がった小径に車止め、コンクリート製の板を並べた道路、銭湯跡、クリーニング店、豆腐店、プール、横浜市の境界杭、小径沿いに並ぶ民家との段差是正のための2段ほどの階段などだ。
毎日の通勤経路や散歩道だけではなく、初めて訪れる町でも暗渠サインを意識して歩きたいものである。こういう物を見つけたら、昔の地図(昭和30年代の住宅地図など)と見比べて水路跡を確認することができるかもしれない。
その他にも思わぬ発見がある。今回の探索で見つけた旧護岸、水の流れ、そして暗渠とは関係ないかもしれないが、「なにこれ」(長屋門とか墓地)とかの風景。こういうものを発見すると、なんだか得したような気になる。
そして、運が良ければ路上で出会った古老から話が聞けるかも。その話から、昔の風景を想像することもできる。
そんなことを感じながら、今回の暗渠探索を終えた。【了】
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