いそご文化資源発掘隊2022(4)



第58回いそご文化資源発掘隊 

「赤い靴」と「青い目の人形」~2つの童謡がつなぐ横浜物語~

(2022年11月24日)

会    場 杉田劇場リハーサル室

参 加 者 42名

ゲ ス ト

 松永 春さん(赤い靴記念文化事業団 団長)

 海老原雅司さん(口笛奏者:2022年口笛世界大会3位入賞)

司会進行 清水一徹(杉田劇場職員) 


第1部

 「横浜貿易新報」大正12年7月1日号、首都圏に壊滅的な打撃を与えた関東大震災の2か月前の記事である。



  『赤い靴』の作詞は野口雨情で、本名は英吉という。明治15年5月29日に、今の北茨城市磯原にて生まれた。

 彼は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した名将、楠木正成の弟である楠木正季の子孫と伝えられている。また、雨情の大叔父は幕末の尊王攘夷派の志士として知られる西丸帯刀である。彼は水戸藩の郷士として、若き日の桂小五郎らとの交流があった。

 作曲者は本居長世。明治18年4月4日、東京府下谷区御徒町にて生まれている。

 彼は国学者の本居宣長の子孫で、幼き日に母を亡くし、養子だった父も家を出た結果、同じく国学者である祖父の豊穎(とよかい)に育てられた。

 



 雨情と長世のコンビは、『金の船』で同年9月号にて発表された「十五夜お月さん」が、11月27日の「新日本音楽大演奏会」(於有楽座)で演奏され、みどりの歌が脚光を浴びたことで一躍話題になった。

そして大正10年12月は、彼らにとって大きなターニングポイントともいえる時となった。『金の船』12月号に「青いの人形」が掲載されたのだ。どこか愛らしい女の子の人形が描かれている。

 『金の船』の目次では「眼」となっているのに対し、楽譜と歌詞では「目」と表記されているので。今回のタイトルはこちらを踏襲している。

 さらにこの楽譜、拍子が4分の2拍子、現在は4分の4拍子に変更されているのだ。大正11年5月15日発行の『本居長世作曲 新作童謠(ママ)』第五集(敬文館) の楽譜で拍子が代わったようだ。

 「青い目の人形」は、洋服を着た少女のイメージかと思うが、実際はこのキューピー人形が、雨情の書いた「青い目の人形」の歌詞にインスピレーションを与えたそうだ。

当時、三女の香穂子がこの人形を可愛がっていた姿を見たことがきっかけと伝えられている。

 さて、本居長世にとって、その音楽活動の中期において大きく貢献したのが自身の娘である三姉妹だった。右から長女のみどり、次女の貴美子、三女の若葉。

みどりは童謡歌手の第1号として大きな脚光を浴び、それに続く貴美子と人気を二分した。貴美子の5つ下にあたる若葉は三姉妹の中でも最も長生きし、詩人の菱山修三に嫁いだのち、92歳で亡くなるまで長世が残したものを世に広め続けた。

 本居みどりは、大正9年12月2日に開港記念会館にてソロデビューをしたと、松浦良代さんの書いた伝記『本居長世―日本童謡先駆者の生涯』には記されている。

 横浜貿易新報の記事にもなり、長世のスクラップブックに残されているとのことだが、同年11月および12月の本紙にはその事実が見受けられない。



 さて、「赤い靴」の公開初演の地は横浜だったのか?ということだが、これは現在確認できている資料は、この「横浜貿易新報」のみである。

 当時、本居長世が出演した演奏会の記事も、読売新聞など他の新聞社に幾つか見られたが、少なくとも都内をはじめとする首都圏では確認ができない。

 一つ言えることは、横浜以外の地でこの演奏会より前に「赤い靴」を歌った記録は見つかっておらず、その後の渡米楽旅ではプログラミングされたものの、どうやらかの地で「赤い靴」はいささか暗い曲調ということもあり人気がなかったようだと、弟子である金田一晴彦執筆の伝記には書かれている。

 そのせいか、現在確認できている以後の演奏会記録にも、『赤い靴』は見受けられない。この謎について今後も追っていきたい。

今回の企画を立てるにあたり、野口雨情の生まれ故郷である北茨城市磯原に行ってきた。

写真は駅前の「からくり時計」。雨情が作詞した「シャボン玉」「七つの子」「青い目の人形」3曲を一日7回演奏する。演奏時間は9時・12時・14時・16時・17時・18時・19時でそれぞれ3分間。

時計塔のデザインは、晩年を北茨城市の五浦(いづら)で過ごした岡倉天心が思索にふけった庵、六角堂をかたどっているとのこと。



 写真は左から人形の家、人形の家にあるポーリンちゃん、フランス山にある赤い靴の跡、絵タイルに描かれた赤い靴。

 


 全国にある赤い靴像

 

 左上:北海道小樽運河公園

 右上:北海道留寿都村赤い靴公園

 左下:青森県鯵ヶ沢海の駅わんど

 右下:北海道 函館西波止場前

 


写真左から静岡市日本平、港区麻布十番、横浜市山下公園、アメリカ・サンディエゴ、JR横浜駅中央通路。

 


 第一部の終わりに特別ステージを用意した。今年度の口笛世界大会で第3位に入賞し、テレビ番組「マツコの知らない世界」でその高速演奏が話題になった、口笛奏者の海老原雅司(えびはら・まさし)さんによる口笛演奏。

【演奏曲】

スポーツショー行進曲

赤い靴/青い目の人形/カモメの水兵さん

愛燦燦/スターダスト

ジャズ風トルコ行進曲

丘を越えて

第2部

 第2部はゲストに赤い靴記念文化事業団の団長松永春さんをお迎えし、みなと横浜のシンボルといえる「赤い靴はいてた女の子像」の建立にまつわるエピソードを伺った。以下、松永さんのお話。


松永:私にも子供の時代がありましてね、まだできたばかりの頃の幼稚園に通っていました。そこは教会がやっていまして、園児が13人いました。そこに外国人の牧師さんとアシスタントの牧師さんがいたのですが、そのアシスタント牧師さんが「赤い靴」が好きだったんですね。

 でも園児には難しかったので、みんな「異人さん」というところを「いい爺さん」と歌っていました。私は「ニンジンさん」と言っていました。



 「赤い靴はいてた女の子」像を作ろうと思ったのはおとなになってからです。なぜかというと、横浜開港100周年記念でマリンタワーをつくったり、氷川丸を公開したりしています。それで横浜は観光地といわれていますが、この二つだけで観光地といえるのかなと思ったからです。

 山下公園も観光地だといいますが、もっといい公園もあるし。これじゃあ、寂しいなと、のちのちはみなとみらいに色々できましたが、その当時はそういうふうに思っていたわけです。

 そこで「赤い靴はいてた女の子」像をつくろうと思い、友だちなどに声をかけ10数人のグループができあがり横浜市の緑政局の方に行ってきました。そして局長にお会いしてお願いしたところ、「それはダメだ。公園内には建てられない」と言われました。「作りたいなら、1坪くらいの土地を借りてやったらどうですか」と。

 山下公園の中にはいろいろなものが建っています。「ガールスカウトの像」があります。そこの会長が内山県知事の奥さんだったんですね。建立したときのお話を伺ったら、「提案したら次の月にはOKになった」というんです。

 ほかに「リカルテ将軍の碑」もありまして、この人はフィリピン独立の父なのですが、これは誰から申請が出ていたのか調べると、日比協会の会長だった岸信介元総理大臣なんですね。それもなんの問題もなく建てられているんですね。

 あとはインドの水塔がありますね。あれは関東大震災で、横浜在住のインド人が多数被災しましたが、その救済のために横浜市民が尽力したその感謝の意味で在日インド人協会が建立したものです。

 そんなこともあって、ある人が「もっと地位のある方、議員さんとかに相談したらどうですか。それでもダメだったらあきらめるか」と言われたのですが、そういうのは一切使いませんでした。それから新聞社などが取り上げてくれて、「もういいだろう」ということになり、作家に像の制作を頼みました。

 受けてくれた作家が一応、像を作ることになり、その前に「こういうのを作る」ということで新聞に出したのですが、その女の子は髪が短くて、鳩を持っている姿でした。それに対し、髪が短いと風にそよぐ感じがしない、鳩はフンも多くて公害のイメージがある、そんな意見もあって出来あがったのが、今の像です。

 資金集めも大変でした。キーホルダーを作ってくれた人がいて、それをチマチマ売ったりしていましたが、像を建てるには1,200万円くらいかかるんですね。それで、像のミニチュアを作って、寄付してくれた人にプレゼントすることにしました。

 

 1万円寄付してくれたら1体差し上げるということで、999体作りました。あっという間に999万円の寄付が集まり、おかげであの場所に建てることができました。



私が旧制中学に入った時に戦争が始まったんですね。最初は良かったのですが、3年くらい経つと、これからは学業は終わり、みんな軍需工場に行って働くことになりました。私は働くのは嫌ではないのですが、工場の旋盤の前でずっとやっていくのは嫌です。子どもの頃から飛行機が好きで、飛行機に乗って落とされて死ぬのは構わない。

 

14歳で入れる飛行学校はないかと探したら、すぐにあったんですね。東京陸軍少年飛行兵学校です。そして陸軍省から厚い書類が届き合格になりました。そしたらもう一回試験があるというので立川に行きました。そこで操縦、通信、整備に分かれるのですが、私はおかげさまで操縦の方へ行きました。そこで一生懸命に訓練をしていました。

みんなで共同生活している中、誕生日になるとお祝いでリンゴを1個くれるんですね。その代わり何か一曲歌わなければなりませんでした。そこで私は「箱根八里」を歌うことに決めていました。そしたらね、藤沢出身のヤツがいて、それが歌っちゃったんですよ。

 

同じ歌を歌うわけにはいかない。そこで考えて、「赤い靴」を歌いました。「異人さんに連れられて行っちゃった~♪」なんていう歌詞があるわけですが、軍隊で歌うんですからすごいですよね。

そしたら班長が来て、「あとで隊長のところに来い」と言われちゃったんです。そこで隊長のところへ行ったら、「お前、あの歌を真面目に歌ったのか?」と言うんですね。

 私は「はい、真面目に歌いました」と答えたら、竹刀を持ってきて両腕をバンバン打たれてしましました。実は前日に4種混合というワクチンを打たれていて、腕はパンパンに腫れていたんです。

 そんなひどいときに打たれたんですから、もう涙も出ませんね。 そして「ごめんなさい。大変な歌を歌ったと思います」と言って謝ったんです。そしたら「分かったんならいい」と言うんです。打った後から「分かったからいい」と言うんです。

 そして次の日。

 那須の飛行場にいたら空襲がありました。松の木の間に飛行機を隠していたんですけど、飛行機なんて上からすぐ見えちゃうんですよ。兵隊は飛行機の下に隠れるから、それを撃ってくるわけです。私も下にもぐって隠れたのですが、一緒に逃げた子がいました。そこで私が「伏せろ!」と叫ぶとダダダダッと撃ってきてすごい煙が立ちました。後ろを見たらその子の顔が血だらけでした。私のズボンにも血が流れているんです。結局、その子は死んでいました。

 そしてお通夜をやろうということになり、例の隊長が言うんです。「おい、松永、この前歌った赤い靴を歌え」と。そこで私はその子の傍で「赤い靴~履~いてた~♪」と静かに歌ったんです。そしたらみんな、泣き始めるんです。みんな寝ないで朝まで屍の傍にいました。

 隊長が私のところに寄ってきて、「この前は悪かったな。この歌はぴったりだ。異人さんに連れられて行っちゃったな」と言うんです。意味わかんない。

 今度は頭を撫でてくれるのかと思ったら、そんなことはない。(笑)ま、軍隊というのはそんなところなんですよね。



 それほど私は「赤い靴」が好きだったのかもしれません。もしかしたら、それしか歌えなかったのかもしれませんが。しかし、おかげさまで昭和54年11月11日に、あそこに赤い靴の像を建てることができました。43年前です。私はまだ50歳でした。

 私は横浜文化賞を頂いたことがあるんですけど(平成28年)、像を建ててからその時までに、山下公園に何人くらい来ているのか計算したことがあるんです。1億4千万人も来ているんですね。何回も来ている人もいるし、女の子の像を見ない人もいるので話半分としても7千万人は来ていると思います。そこで私はいいことしたんだなぁ、と自分で思いました。

 また、少年少女の赤い靴ジュニアコーラスをつくり、それに続いてザ・シワクチャーズ横浜を立ち上げました。60歳以上の女性で、60人ではなく600人も集まったんです。世界最大のコーラスになりました。

 でも、みんなで同時に歌うと輪唱みたいになっちゃうんです。一人の指揮者じゃダメなんですよ。その後は140人くらいになりましたが、世界中を回っています。15か国くらい。イタリアには60人で行きました。1ドル80円台の時代でしたから、行くとコートを買ったりね。

それからミュージカルも16回やっています。テーマは全部横浜のことです。100人くらい出て有名になりましたけどね。子どものミュージカルは現在も続けています。大晦日には元旦の朝まで「赤い靴の像」の前で歌を歌っています。

 「赤い靴はいてた女の子」像の建設に支援してくれた42,992名の名簿をプラスチックのケースに入れて像の下に埋めました。いつも感謝しています。


 この日は、「人魚姫像」のデンマーク、「小便小僧像」のベルギーの大使館関係者も参列し、大きな盛り上がりを見せました。

 世界の3大メルヘン像というのがあります。デンマークには人魚姫、オランダには小便小僧、そして横浜には赤い靴の履いてた女の子。これから皆さん、こういう言い方をしてください。



 テケテケテケの寺内タケシさんとブルージーンズですが、当日、突然やって来たんです。

 実は私はこの人に頼んではいなかったんですよ。強引にやって来たという感じです。

 

 そしてやぐらを組んで舞台を作ってしまったのです。

 公園には電源もないから司会はメガホン式のマイクでやることを考えていたのですが、そのことが、どこでどう漏れたのか、彼らは電源車を持ってきて、マイクもたくさん付けてくれました。

写真左:本居長世の三女 本居若葉さん 右:除幕式当時60歳 



写真左:除幕式当時の野口不二子さん 右:現在の野口不二子さん


清水:出来あがってからの苦労はいかがでしたか?

松永:靴がペンキで赤く塗られていたり、唇が真っ赤に塗られていたり…。ペンキはなかなか取れないんですよ。

 それからね、像の手の部分が凹んでいるので、そこにお金を入れていく方が多いんですね。お賽銭ですかね。拝んでいく人もいます。ここにお金を入れると海外いけるとか。

 あの頃は公園にまだホームレスがいたんですが、像のうしろにずいぶん並んでいるなと思ったら、そのお賽銭を入れる、取る、入れる、取る…その順番待ちでした。(爆笑)

 ほかにワンカップも置いていく人もいました。みんなで輪になって吞んでいました。(笑)

 それでなるべく早く回収するようにして、結局25万円くらい集まりました。シルクセンターの郵便局に口座を作ったんです。名前は「山下公園」と書いて「やました きみえ」です。

そのことが新聞に載って郵便局から「架空の名前はダメだ」と言われて、結局、横浜駅に小さな「赤い靴はいてた女の子」像を作るための資金とさせていただきました。

清水:ちなみにこれは11月に行った時の撮影ですが、ネックレスを付けられていました。これなら可愛いですけどね。

松永:こないだ行ったらね、白いマスクをつけている男の人がいたんですよ。この像は滑るんですよ。だからマスクをつけにくいんです。

 それで「何やっているんですか」と聞いたら、「いま強いテープを買いに行っているんですよ」と言うんです。(爆笑)

 そして「この公園の方ですか」と聞かれたんで、「いや、私はこの像を建てた者ですよ」と答えると、「逃げろ~」って言って、逃げていきました。(爆笑)

 そのままにしておいたんですけど、そしたらね、次の日、掃除のおじさんが来て、「これじゃあ息ができないじゃないか」と言ってマスクを捨てたんです。マスクをつけた人も、捨てた人も、両方ともいいですよね、人間だなぁと思いました。

清水:11月に見に行ったときはネックレスがつけられていましたが、その後、無くなっていたので公園管理者が外したのかなと思います。

 ネックレスを付けられることは多いんですか。

松永:あそこはガーデンネックレスといいますからね(爆笑)。多いですよ。

 寒いときは毛糸の帽子をかぶせてくれるんですよ。



清水:現在、松永さんにとって赤い靴はどんな存在になっていますか。

松永:おかげさまで皆様のご協力もあって夢が叶いできあがりました。皆様に感謝しています。

 数年前に100歳で亡くなった三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう)という方がおられましたよね。除幕式のときに、その殿下から金田一春彦先生を通して「なぜ自分は呼ばれないのか。発案者に会いたい」と言われたというんですね。

 三笠宮様は「童謡の宮様」といって、幼少のころから童謡の作詞をされていました。たとえば「砂糖」とか本居長世が曲を付けた「月と雁」とか。それらはレコードにもなっています。それでお会いしました。

 亡くなった三笠宮寛仁親王(ともひとしんのう)とは友達になっていまして、よく電話がかかってきて今日飲みに行こう、なんていって誘われるんですが、私は全然飲めないんですよ。紹介者によると、「あの殿下はいろんなところに飲みに行ってお金を借りている」っていうんですよ。「もし飲みに行ったらお前が全部払わなければいけない」と。

 ですから、ずっと「飲めない」「飲めない」と言っていたんです。そしたら、そのうちに言わなくなりました。

 そのお父さまのところにお会いしに行ったんです。でも、こういう所に皇族が出てくるのは難しいんです。除幕式においでいただくことはできませんでしたが、こんなお言葉をいただきました。

 「あなた方は素晴らしい像をつくった。これで私の好きな赤い靴もいつまでも歌い続けられる。ありがとう。横浜へも多くの人が訪ねてみえるでしょう」

清水:時間が無くなってきましたので、この辺でご質問のある方、どうぞ。

男性:お名前が「春」さんということで、おしゃれな感じですが、どういう由来があるのでしょうか。

松永:私の大叔母がイギリス人と結婚しまして、明治時代です。当時は外国人と結婚するのは悪い女だと言われていて、二人はハワイに行って仕事をしていました。そして時々日本に帰ってくるわけです。4月に帰って来た時に、ちょうど私が生まれたそうです。

 それで、その外国人に名前をつけてくれ、と言ったら、「そりゃあ簡単じゃないか。日本では正月のことを春っていうじゃないか。だから春にしよう」となったそうです。

 でも、それからが大変だったのです。父親が届けるために中区役所に行きました。そしたら、「この名前はいじめられるから良くない。女の名前だからやめた方がいい。受けられない」と係員に言われたんです。現代なら男でも春という人はいますよ。外国人でもハルという名前はあります。

 「でも、名前を付けてくれた人がいるんです。その人に失礼だから春で受けてくれ」と言ったら、「いや、私は受けられない」と拒否するわけです。「じゃあ、なんていう名前がいいんですか」と訊くと「春に馬と書いて春馬なんかどうだ」と。

 それで仕方ないから「じゃあ、あんたに任せるよ」と役人に言ったんです。自分は他に用がありそれを済ませて戻ってくるから、それまでに考えておいてと。そしたら課長や誰かと相談したんでしょうね、戻ってきたら「できました」と言うんです。「春に秀吉の吉を付けて、春吉(はるよし)にした」と。

 「はるきち」とすると田舎の爺さんみたいになっちゃいますから「はるよし」なんです。だから正式には松永春吉なのですが、私は松永春を使っています。名付け親はイギリス人です。

清水:ほかにご質問のある方、いらっしゃいますか。

 今回は山下公園につくられた赤い靴像のお話でしたが、実はこの像、横浜駅と海を渡ったアメリカのサンディエゴにも建てられているんですね。

 ということで、来年度にも松永さんにおいでいただき、その辺のお話をおききしたいと思っています。本日はどうもありがとうございました。【了】