ここでは旧杉田劇場とアテネ劇場、そしてそこに出演した若き日の美空ひばり(当時は加藤一枝、和枝)に関する情報を書き留めていきます。

No.1 杉田青年団が出演した杉田劇場

 昭和21年(1946)9月16日付の神奈川新聞に掲載された杉田劇場の広告です。

 

9月16日晝夜2回 入替ナシ

戦災者 引揚者 慰問演藝大會 初秋を劃する此の壮擧

杉田青年団演劇 若手連中熱演

 

喜 劇 車夫の代診

時代劇 国定忠治 御存じ山形屋

新 派 名人長治

 

杉田通り・市電湘南共杉田駅

 

と書いてあります。京急のことを当時は「湘南」と呼んでいたようですね。

 

  さて、この杉田青年団ですが、美空ひばりの叔母である西村克子さんが、著書『愛燦燦・ひばり神話の真実』の中で少し書いています。

 ひばりの父、増吉さんが「美空楽団」を作ったとき、ドラムがなかったため杉田青年団の人が持っているのを買いに行った、というのです。当時、杉田の青年団は一つだけだったはずなので、もしかしたらドラムを譲った人も、この劇に登場していたのかもしれませんね。

 しかし、旧杉田劇場のプロデューサー鈴村義二が美空楽団を作らせたという話が残っています。


No.2 昭和23年7月、「四谷怪談」の公演があった

 四谷怪談を公演したのは“好評の雀之助一座”と書かれている。市川雀之助という人が座長の劇団のようだ。

 “好評の”とあるから、当時は有名だったのだろう。

 

 昭和33年の週刊誌によると、一座は裏町歌舞伎と呼ばれていたことがわかった。今でいう大衆演劇みたいなものであろうか。

 昭和35年の週刊誌ではこんな記事も出ている。

 出し物は歌舞伎をアレンジしたものが多く、座員は29人と少ないので、演技の合間には大道具、小道具、囃子方に早変わりするという。こう書くと何やらうらぶれた雰囲気を連想しがちだが、この一座は芝居もしっかりしていて、座長が大見得をきると、客席から「雀サマ!」、「小紅さま!」と声がかかり、タバコやおひねりが投げられるという話を紹介している。

 今、杉田劇場に来られるご利用者様やお客様のなかには、旧杉田劇場でいろいろ演劇を観たよ、という方が結構いらっしゃる。

 先日、ギャラリーを借りて絵画展をなさっていたグループの中に、旧杉田劇場の内部構造をしっかりと覚えている方がおられた。雀之助や市川門三郎の話がバンバン出てくるのだが、その中に「四谷怪談」を観たという話があった。


No.3 昭和23年9月、杉田劇場で映画大会が行われた

 昭和23年9月7日の神奈川新聞に載った映画演劇の案内。戦後間もないころは演劇が主体であった劇場案内だが、この時代になってくると、あちこちで映画の上映が増えてきた。

 すべての新聞記事を確認したわけではないので、確かなことは言えないが、手持ちの記事だけからいえば、これが杉田劇場での最初の映画上映だったかもしれない。

 昭和21年4月、6月~8月、12月号、および23年8月号が図書館では欠号だったので、もしかしたら、この中に映画上映の広告が載っていた可能性も大いにあるのだが。

 上映されたのは9月7日から9日の3日間。ただしトーキーではなく、“昔懐かしの無声映画大会”となっている。

 3本立てで1本目が「滝の白糸」だ。戦前戦後を通じいくたびか映画化された泉鏡花の名作であるが、昭和12年以降はトーキーなので、これは昭和8年の無声映画かもしれない。

 となると出演者は入江たか子、岡田時彦など、そうそうたるメンバーである。

 2本目は沢正の国定忠治。沢正というのは新国劇の沢田正二郎のことで、Wikipediaによると彼が主演した映画「国定忠治」は大正14年の作品である。

 3本目はマンガ弱虫珍戦組。これもWikipediaによると、制作・監督は漫画家の市川崑で、昭和10年に公開されたアニメ映画である。上映時間約15分。

 端の方に映画説明と書かれているのは弁士。活字がつぶれており判読ができないが、谷天郎と竹本○○と読める。後者は竹本嘯虎のようである。

 どんな映画だったのか、観てみたいものである。


No.4 昭和21年4月10日に掲載された杉田劇場の広告

 左の画像は昭和21年4月10日の神奈川新聞に掲載された広告です。

 まず、目につくのは劇場名の前の「新設」という文字。このことによって、杉田劇場は昭和21年(1946)4月の少し前に造られたことが分かります。どのくらい前なのか、普通に考えれば2月、3月あたりなのかもしれませんが、残念ながら当時の新聞には劇場オープンの記事も広告も見当たりません。

 杉田劇場の経営者・高田菊彌氏の甥で同劇場の社員だった片山茂氏の話では、1月にオープンしたといいます。開場から3か月も経っているのに「新設」というのも妙な感じがしますが、4月10日に初めて新聞紙上に登場したのですから、わざわざ「新設」とつけたのかもしれません。

 

 この時のメインは暁第一劇団。これは大高ヨシヲが座長の劇団でした。特別出演はミソラ楽団で、熱血ノ舞台とされています。加藤和枝(のちの美空一枝、美空ひばり)が杉田劇場の舞台に立ったことは確かな事実ですが、それがいつだったのかは不確定です。しかし、彼女はミソラ楽団とセットで出演していますので、おそらくこの4月9日を初日とする「三の替」興業時にも歌っていたに違いありません。

 ここで注目したいのは「熱血ノ舞台」という言葉。これは初登場とは思えないような書き方です。「二ノ替」か「一ノ替」、あるいは3月あたりで何回か出演していたのではないでしょうか。

 美空ひばりが、いつ、どこで舞台に立ち始めたのかは諸説あって、よく分かっていません。ここでは、当時の新聞広告などからその辺を突き止めていきたいと思います。


No.5 昭和21年4月13日に掲載された杉田劇場の広告

 4月10日に続いて掲載された杉田劇場の広告。「好評 四の替 十三日初日」というカコミ文字のほかに、「四日毎ニ狂言差替上演」と書かれています。今回の上演予告は昭和21年4月13日から16日までのものですが、前回の広告と違うのはミソラ楽団の扱い方です。

 三の替では大高ヨシオ一座暁第一劇団が、新舞踊、喜劇、時代劇と3本立てで公演し、そこにミソラ楽団が特別出演するというふうに読めます。

 ところが今回の四の替では、「家族」と「浮名の銀平」の2本立てで、ミソラ楽団はその間に入り、合わせて3本立てとなっています。

 三の替に登場した楽団が好評だったので、格上げしたような形になっています。しかもミソラ楽団という文字が2カ所に書かれています。

 さらに、この楽団がどういう演奏をするのかという情報も、小見出しながら付け加えられるようになったのです。彼らは民謡と軽音楽をやったようですね。

 

 現在の杉田劇場には、旧杉田劇場に貼られていたポスターの原寸大コピーが2枚展示されています。1枚は大高ヨシオ一座とミソラ楽団の名前、もう1枚は大高ヨシオ一座と美空楽団のほかに美空一枝(のちのひばり)の名前が書かれています。

 残念なのは、この2枚がいつの公演だったのか、日付が記載されていないこと。ただ、杉田劇場で働いていた片山さんのお話では、昭和21年3月か4月ということでした。

 杉田劇場では4月16日までミソラ楽団が出演していたことが分かりましたが、その後は誰が出ていたのか。

 さらに広告を調べていくと、4月21日は浪曲、22日~24日は大高ヨシオ一座、25日~30日はおかめ座という公演でした。

 その後も、近江二郎、森野五郎とつづき、ミソラ楽団の名は出てきません。

 ということは、あのポスターに書かれた興行は昭和21年4月の一の替、二の替だったのかもしれません。あるいは、3月だったのか・・・・・・。

 次回はそのポスターについて書いてみたいと思います。


No.6 昭和21年3月頃と思われるポスター

 これは、旧杉田劇場を経営していた高田菊弥の甥、片山茂さんから寄贈していただいたポスターである。時代劇「涙雨五千両」という劇をネットで検索すると、2件ヒットした。一つは「近代歌舞伎年表京都編別巻(昭和18年~22年)」に掲載されている。もう一つは「近代文学研究叢書」。どちらも演目として載っているだけなので、詳しい内容は分からない。しかし、このような書籍で扱われているのだから、歌舞伎の一つなのだろうか。それとも普通の時代劇だったのか。

 配役の中に太字で書かれている大高ヨシヲというのが座長で、当時は人気の一座だったようだ。演出の大江三郎というのは芳松役で出ている役者と同一人物であろう。

 ここで一つ、気になる人物が浮上してくる。風穴の大助役の宮田菊弥である。「宮」と「高」はよく似ている。下の名前は高田菊弥と同じ。芝居好きだった小屋主が宮田菊弥の芸名で自ら出演していたと考えるのも面白い。

 


No.7 昭和21年4月頃と思われる旧杉田劇場のポスター

 これも片山茂さんからいただいたポスター。昭和21年4月頃のものだというが、正確な日は分からない。No.6で掲載したポスターに登場するミソラ楽団の表示が、こちらではずいぶん格が上がったような書き方である。

 まず、「ミソラ」が「美空」に変化している。そして楽団名を赤字で強調。さらにメンバーが一人ひとり、青字で紹介されているのだ。そんなことから、こちらのポスターの方がNo.6のものより後に作られたと考えてよいだろう。

 次に問題となるのは、No.4とNo.5で紹介した新聞広告と、片山さんから寄贈されたポスターの関係である。4月10日付の広告に載った公演は4月9日から12日まで、4月13日付の広告に載ったのは4月13日から16日までのはず。

 「ミソラ楽団」と「美空楽団」の違いを考慮して眺めると、どうもNo.6⇒NO.4⇒No.5⇒No.7の順に登場した思われる。


No.8 昭和21年4月21日の広告 浪曲の夕に春日井梅鶯が登場

 昭和21年4月13日の広告(No.5参照)は、暁第一劇団大高ヨシオ一座熱血の舞台と題して、四の替りが13日から始まることを伝えている。三の替りが9日初日であったことから計算すると、演目は4日ごとに入れ替えていたことが分かる。ということで、一の替りが4月1日から4日まで、二の替りが5日から8日までとなり、四の替りは13日から16日までとなる。

 その後の17日から20日までについては、広告が発見できなかったため、だれが出演したのかは不明。そして4月21日に「浪曲の夕」とのタイトルをつけた広告が掲載され、その日限りであるが春日井梅鶯が登場することを伝えている。

 

 浪界随一の美聲を誇る人氣王 久しぶりに聞く名調子

 

 当時、浪曲界で有名だったと思われる春日井梅鶯、どんな人物であったのか。

 Wikipediaによると1905年(明治38年)に生まれ1974年(昭和49年)に亡くなっている。14歳の時に旅廻り専門の浪曲師、春日井梅吉に入門。東海林太郎のヒット曲「赤城の子守唄」を脚色した浪曲を演じて一躍スターダムにのし上がったという。

 どんな節回しだったのか、ちょっと聴いてみよう。

 戦争が終わって8か月。まだまだ娯楽の少なかった時代である。こういうのを聴くため杉田劇場に大勢のお客さんが殺到したと思われる。

 春日井梅鶯の公演はこの日だけで終わり、翌22日から暁第一劇団大高ヨシオ一座が上演することが予告されている。

 


No.9 昭和21年4月25日の広告 浅草の人氣王 横濱初公演

 昭和21年4月25日の広告によると、浅草で人気を博していた劇壇(団)「おかめ座」が横浜で初公演をするという。その劇場が旧杉田劇場だった。

 劇団名の横には「三木歌子と其楽団」ということも書かれている。楽団と一緒に横浜へやって来たようだが、BGMを担当したのだろうか。

 

 演目は・・・

①春は天窓に

②昨今与太者譚

③フクチャン暴れる

 となっている。

 

 この劇団と楽団がどんな団体であったのか、インターネットで調べてみたが、まったく分からない。タイトルから考えると、現代劇とか明朗劇といったジャンルだったのだろう。

 広告が出たのは4月25日であるが、実際の公演はこのあとになる。25、26日は爆笑演芸大会となっているので、どこか他の団体が出演したようだ。

 

 4月27日に旧杉田劇場は再び広告を打っている。それによると、「おかめ座」の公演は4月27日から4日間となっている。記載されている演目は25日に出た広告と変わらない。

 

 ただ、大きく違うのは、「慰問、巡業御引受ケ致シマス」という一文と、杉田劇場の前にFT興行商社の名称とFTというロゴマークが加わっていることだ。

 この興行商社が慰問や巡業のマネージメントを行っていたと思われる。

 

 FTとは、なにかの頭文字なのか、このへんに関してはまだまだ調査が必要だが、はたして知っている方はいるのだろうか……。


No.10 昭和21年3月23日 弘明寺の「銀星座」開館

 旧杉田劇場がオープンしたのは昭和21年1月であったが、それから3か月後に、“横浜最初の演劇演芸の大衆劇場”と銘打って「銀星座」が開場。“横浜最初”というのは杉田劇場なのだが、杉田はオープンの広告も出していなかったので、銀星座に横浜初を名乗られてしまったようだ。

 こけら落しには近江二郎劇団が出演している。


No.11 昭和21年4月23日 「銀星座」に再び近江二郎が

 神奈川新聞社発行の『時代を拓いた女たち』という本の中で、横浜市会議員の田野井一雄氏がこんな証言をしている。

「上大岡の風呂屋の風呂の上に板をはって、ひばりちゃんが歌ったの、覚えているんですよ。入りきらない人だかりだった」

 その頃、のちに美空ひばりとなる加藤和枝は弘明寺の銀星座、上大岡の大見劇場、戸部の横浜復興会館などで歌っていたという。



No.12 昭和21年5月10日の広告 森野五郎大一座

 戦災後濱初公演とある。森野五郎という人は明治27年生まれ。Wikipediaによると、サイレント期の時代劇スターとして活躍し、多くの作品に主演したそうである。

 昭和4年に映画界を離れ森野五郎劇団を結成したというから、戦前には長いこと演劇界で活動してき一座のようだ。戦後再び公演を行うようになり、横浜で初めて登場したのが、この杉田劇場だった。

 


No.13 昭和21年5月31日の広告 お好み有名会

 お好み有名会と題して、講談、落語、浪曲界の有名演者を招いている。神田ろ山(初代)というのは講釈師で3代目神田伯山の弟子。「次郎長伝」や「吉良の仁吉」を得意とした。杉田劇場に出演した4日後に、56歳という若さで亡くなっている。

 このとき出演した林家正蔵は7代目である。その息子が「どうもすいません」で一世を風靡した林家三平。

 木村松太郎は浪曲師。門下に木村派最後の一人、木村勝千代がいる。

 この日の広告によると、翌日から市川門三郎が登場することになっている。



No.14 昭和21年6月1日の広告 市川門三郎が初登場!

 前日に予告が出ていたとおり、東京若手歌舞伎の市川門三郎一座が6月1日から公演することになった。久々にお目見えする歌舞伎十八番ものと銘打ち、***心中、切られ与三郎が上演される予定だ。これから杉田劇場とは長い付き合いになる。

 どんな役者だったのか、インタネットで調べてみると、「戦中から戦後にかけて小芝居一座の座頭として各地の劇場に出演。関東・東京近郊では人気者だった。昭和38年1月から大歌舞伎に復帰。昭和40年に師八代目市川團蔵に望まれて三代目市川白蔵を名乗った」とある。


No.15 昭和21年6月19日の広告 三門博 遂に来る

 広告左側は左右に分かれており、左側は翌20日からの市川門三郎一座の案内である。そこに添えられている「大好評続演中の…」という見出しから考えて、この一座は6月1日に初登場してから、ずっと出演していたのかもしれない。

 右側は「キングレコード専属 観音経の三門博 遂に来る」と浪曲の名人が紹介されている。インターネットで調べてみると、明治40年に生まれ平成10年に亡くなっている昭和の浪曲師。戦中に出した「唄入り観音経」が空前の大ヒットをし、戦後も長らくヒットを続けたそうだ。ちなみに、どんな感じなのか聞いてみようか。

三門博 口演 唄入り観音経 ←クリック



No.16 旧杉田劇場の経営者・高田菊弥のナゾ

 このポスターは昭和21年3月か4月頃、旧杉田劇場に貼られていたものである。

 時代劇「嫌われた伊太郎」と題されており、役者の名前がすべて記載されている。

 主役は座長の大高ヨシヲで演出は座員の大江三郎。ここでは、島の勘太郎役の宮田菊弥という人物に注目したい。この名前を見てすぐに思い浮かぶのは高田菊弥だ。名前が酷似している。

 違いは「高」と「宮」。この漢字も見た目、よく似ている。これは偶然なのか。この役者、もしかしたら高田菊弥そのものだったのではないだろうか。

 もう一枚のポスター「時代劇 涙雨五千両」にも宮田菊弥が掲載されている。今となっては確かめようがないのだが、高田菊弥の芸名が宮田菊弥だったような気がしてならない。


No.17 磯子館とはどんな施設だったのか

 これは、昭和21年3月5日の神奈川新聞に掲載された広告である。

 政党の創立準備会が、結成大会を開催するという告知だが、どんな政党だったのか、インターネットを検索しても何も手がかりが得られない。

 戦後、似たような名前で改進党というのがあったが、これは昭和27年から29年に存在していたので、別物であろう。この日本改進党創立準備会の委員長・長谷巌という人は、長谷鉄工所とアテネ劇場の経営者と同一人物と思われる。

 会場となった「磯子館」というのは、どこにあったのだろうか。磯子町で市電「浜」下車とあるので、アテネ劇場の近くだったのだろうか。それともアテネ劇場の前身だったのか……。



No.18 再び市川門三郎の公演

 昭和21年6月1日に初登場した市川門三郎。その後、確認できた広告を見る限り、杉田劇場にはしばらく出演せず、この広告に掲載された7月13日からの公演が二度目だったと思われる。

 当時の杉田劇場が毎回、広告を出していたかどうかは不明なので、正確な所は分からないが……。

 市川門三郎は東京若手歌舞伎として知られていたようである。この時の演目は「弥次喜多」だった。昼の12時に開場して入れ替えなし。海辺の涼しい劇場で観劇できることを宣伝している。


No.19 昭和21年7月には桜井潔とその楽団が登場

 昭和21年7月13日を初日として始まった公演は大好評だったようで、18日の広告で続演を伝えている。出し物は、お夏清十郎八百蔵吉五郎扇谷熊谷魚屋宗五郎三勝半七壺坂霊験記の6本立てであった。

 そんな案内の横に、桜井潔楽団の予告が出ている。各位の御熱望により、27,28日に30数名で来場するという。司会は横尾泥海男(よこおでかお)。この楽団を検索してみたら、いろいろとヒットする。日本におけるタンゴの先駆者だったとか、戦前のチラシも出ている。川口松太郎原作の映画「夜の門」では特別出演もしている。映像が残っていないのでよく分からないが、想像するに、おそらくキャバレーの楽団役だったのではないだろうか。



No.20 アテネ劇場オープンの予告

 昭和21年8月22日に掲載されたアテネ劇場オープンを予告する広告。こんなことが書いてある。

 磯子の濱にあなた方の美しい映画劇場が近日開場されます

 明るいスクリーン 素敵なアトラクションにご期待下さい

 市電濱又は葦名橋下車 雅典劇場(アテネセアタ)

 このあとアテネ劇場がオープンしたという広告はなく、いきなり9月24日に初の映画案内が掲載される。

 このことから、アテネ劇場がオープンしたのは8月下旬から9月上旬の間ではないかと思われる。

 昭和25年3月発行の『月刊よこはま』(横浜市の広報紙)の記事では、長谷鉄工所の工場主、長谷巌氏が出資して、在来の公設市場を改装して開場した、と書いてある。


No.21 昭和21年9月、久々に大高ヨシオ一座登場

 暁第一劇団 大高ヨシオ一座の広告は昭和21年4月に掲載されたあと、ずっと出ていない。その間出演していたのは市川門三郎一座だった。

 そして9月1日、5か月ぶりで大高ヨシオの名前が登場した。

 演目は「森の石松」、「鼠小僧」、「春雨街道」などであった。

 狂言は4日ごとに差し替えると書いてあるので、15日間でこれらを演じていたのだろう。



No.22 中村吉衛門が杉田劇場に出演

これは昭和21年9月17日の神奈川新聞に掲載された杉田劇場の広告。東京大歌舞伎合併大一座の公演が突如、決まったようである。

 出演者がすごい!

 中村 芝翫(のちの六代目中村歌右衛門・人間国宝)、二代目中村又五郎(人間国宝)、二代目中村吉之丞とある。その次に書かれている市川染五郎というのは、四代目か五代目かは分からない。四代目だとすると当時76歳、五代目なら36歳である。

 左端には初代中村吉衛門の名前が見える。公演の月日は分からないが、馬車道市民デパート内プレイガイドおよび杉田劇場で前売券を販売していることが書かれている。


No.23 アテネ劇場最初の広告

 昭和21年8月22日にオープン予告の宣伝をしたアテネ劇場であるが、その後は1か月ほど広告が出ていなかった。そして9月24日に初めて掲載されたのがこの映画案内である。

 エノケンと長谷川一夫の顔合わせで制作された「韋駄天街道」。この日から1週間、上映された。



No.24 大高ヨシヲ最後の公演

 昭和21年9月1日から15日まで公演をした暁第一劇団 大高義雄一座は27日から再び杉田劇場の舞台に立った。

 このときの特別出演は「じゃがいもコンビ」。どんなグループだったのだろうか。

 大高義雄はこのときの出演が最後となる。10月1日に地方公演に出かけるのだが、旅先の交通事故で無くなってしまうのである。


No.25 歌と踊り軽演劇の森永楽劇団登場

 昭和21年10月1日の広告。

森永楽劇団とは、どんなグループだったのだろうか。現在、インターネットで調べても何も情報が得られない。

 広告には娘子舞踊隊と楽団30数名出演とある。その横に書かれているのは「歌と踊り軽演劇の豪華バラエティ コミック舞踊コンサート」。

 これまで杉田劇場が得意としてきた歌舞伎や時代劇とは異なるあたらしい企画だったようである。

 10月4日からの予告は大高義雄一座であるが、1日に交通事故で亡くなっているので、これは中止になったのだろう。



No.26 大高ヨシヲの葬儀

 位牌を持つのは大高ヨシヲの子どもだろうか。中央で遺骨を持っている男性は旧杉田劇場の大江三郎(支配人)。


No.27 大高ヨシヲ形見の背広

 前回掲載した写真と同様、これも片山茂さんからいただいたもの。大高ヨシヲ形見の背広ということが裏に書いてあった。

 後列真ん中の男の子が着ているのがその背広だろうか。大高ヨシヲについては、残された資料が全くないので分からないが、ここに写っている子どもたちは彼の遺児だろうか。

 前列右側の男性は誰だろうか。



No.28 大高よしお追善興行

 昭和21年10月1日の夜、地方公演のため長野県木曽に向かった大高ヨシヲ一座は、途中でトラックががけから転落し、座長の大高は即死してしまった。(そのことについては「片山茂さんの記憶」に詳しく書かれている)

 全劇団員が負傷したものの10月2日、3日の公演をこなして帰浜。そして17日から大高よし男追善興行をおこなっている。

 

 演目は「時代劇 踊る花笠音頭」、「新派 婦系図」。その間にじゃがいもコンビの時代劇。最後は踊りであった。


No.29 新進座が初公演!

 昭和21年10月8日の広告。9日の一日限りで新進座、暁第一劇団、じゃがいもコンビによる大合同劇が公演された。

 座長の大高義雄を失った暁第一劇団は単独では公演できなくなったのだろうか。

 公演は昼夜入れ替えなし、ということだったので、お客さんは弁当持参、または劇場内の食堂で食事をしていた。

 旧杉田劇場の正面右側に飲食スペースがあり、写真をみると焼き芋を売っていたことが分かっている。



No.30 大高よし男追善興行 その2

 昭和21年10月22日に掲載された新聞広告。前回は10月17日から21日まで公演されたが、それに続く2回目の追善興行の案内である。

 出演はもちろん大高が座長をやっていた暁第一劇団。今回は元映画スターの中野かほるが特別出演している。俳優ではなく「スター」というからには相当な有名人だったのだろう。ネットで検索してみたら、昭和の初めに活躍していた女優さんだったことが判明。

 戦後は映画界から離れて、このような演劇に出ていたようだ。


No.31 昭和21年10月1日アテネ劇場2回目の広告

 昭和21年8月22日にオープン予告を出したアテネ劇場。最初の映画案内は9月24日で、その次に掲載されたのがこの広告である。上映したのは「舞踏会の手帳」。昭和12年制作で翌年に公開されたフランス映画だ。

 主題歌の「灰色のワルツ」は特殊な作り方をしているという。美輪明宏さんがそのことをお喋りしているのだが、なんと楽譜を後ろから演奏した録音テープを逆回転させているというのだ。



No.32 前進座が初登場

 昭和21年11月5日に掲載された案内。この日から4日間にわたって前進座の特別公演が行われた。印刷が薄くて見にくいが、3部構成で昼夜2回の公演だったことが分かる。主演は河原崎國太郎

 前売り券も発行していたようで、左端にその案内が出ている。

 馬車道市民デパート小村屋内プレイガイドというのがあったようだ。このデパートに関してはよく分からない。


No.33 芸能コンクールに出場した和枝(昭和21年11月)

オール横浜総合芸能コンクール最終日の25日は、引き続いた好天気と市民の人気が高まって、押すな押すなの足のふみ場もない超満員、開会の挨拶を特別市制の問題でいそがしい半井市長にかわって生活課長吉田仁吉氏、つづいて審査員代表のハーモニカ界の権威川口章吾氏の挨拶。終わって午前10時40分、ハワイアンギターバンドの軽快な伴奏につれて磯子に住む国民学校初等科2年生の加藤和枝ちゃんが白いリボンに赤いドレス、ウクレレを抱いて、「小雨の丘」を身振り手振りよろしく小夜福子そこのけの唄いぶりに開幕早々拍手がわく。【参考】舞台上で歌う姿



No.34 マッカーサー劇場のオープン予告(昭22.1.14)

 昭和22年1月14日に掲載された案内。マッカーサー劇場の開場を予告している。場所は中区宮川町3丁目。実際にオープンしたのは3月4日。

 多くの記事では「マックアーサー劇場」と表記されているが、神奈川新聞に掲載された広告によると、普通にマッカーサーとされている。

 隣には5月5日、美空ひばりが本格デビューを果たした国際劇場もオープン。この場所はかつて、横浜憲兵隊があった。


No.35 美空和枝が銀星座に登場(昭22.1.14)

 マッカーサー劇場が開館するという告知がでた同じ日に銀星座の広告が載っている。メインの公演は自由劇団で、そのあとに「美空和枝と楽団スター」が登場。

 美空和枝というのは、美空ひばりの若いころの芸名であるが、和枝は本名。しかし、それに先立つ昭和21年4月に杉田劇場の舞台に立った時は、美空一枝であった。こちらの方が芸名っぽい。また、楽団名も銀星座では楽団スターと名乗っているが、杉田劇場出演の時は美空楽団であった。【No.7参照】



No.36 天才女流浪曲師・鈴木照子が出演(昭22.1.31)

 昭和22年1月28日の広告。1月31日夜6時から一夜限りで浪曲師・鈴木照子が熱演することを告知している。彼女を女流浪曲の最高峰と形容しているので、インターネットで検索してみたら、どうもそうらしいことが分かった。15歳で天才少女浪曲師といわれていたようだ。

 さらに検索していったら、音源も残っていた。これだ。

ほかにも「小父ちゃん」というのも聴くことができる。

 戦争が終わって1年半。娯楽に飢えていた人々は、こういうのを聴いて愉しんでいた。


No.37 震災者救済演芸大会

 昭和22年2月18日の神奈川新聞に掲載された杉田劇場の広告。東京歌舞伎「市川壽美十郎一座」の案内左側に「関西地方震災者救済演芸大会」の告知も出ている。主催は杉田青年団演劇部だ。ちなみに同演劇部は、子供のころの美空ひばりが出場したオール横浜総合芸能コンクールで入賞している。【No.33参照】

 2月22日、23日両日に演じられたのは時代劇、喜劇、歌舞伎、所作事(舞踊または舞踊劇のこと)。ずいぶん芸達者な人たちがいたようだ。

 ところで、表題にある関西地方震災とは、どんな地震だったのか。調べてみると昭和21年12月21日に発生した紀伊半島沖の南海トラフを震源としたマグニチュード8.0の巨大地震だった。戦争が終わって1年余りのこと。戦災に続く震災、大変な思いをしたのだろう。



No.38 浪曲師・天中軒月子が出演(昭22.2.28)

 昭和22年2月25日の広告から。24日から月末まで、昼夜入れ替えなしで東京歌舞伎を公演している。

 演目は、紺屋高尾(四幕)と熊谷陣屋(一幕)。出演者は、市川壽實十郎(?)、坂東亀久乃丞らが合同で演じたようである。

 下段の案内には「ハマで唯一の歌舞伎劇場」と宣伝しているが、ここでは、しばしば浪曲もやっていた。2月28日に浪曲の夕べが開催された。演者は森三陽、天中軒月子ほかとなっている。旧杉田劇場の写真に写っている幟は、もしかしたら彼女のものだった可能性がある。


No.39 故大高義雄の暁第一劇団が熱演(昭22.3.4)

 暁第一劇団というのは大高ヨシヲ一座のことだが、座長の大高が事故死したあと、昭和21年10月に追善公演を行ったきり、杉田劇場の広告からは消えていた。

 約5か月ぶりの登場ということで、劇団名の上にわざわざ「おなじみ」とつけている。そして陣容整備面目一新とあるから、役者たちも大きく入れ替わったのかもしれない。

 演目は時代劇「美しき白痴の死」、剣劇「利根の血煙」、じゃがいも明朗劇「象を喰った連中」、時代劇「天一坊と伊賀之亮」。

 



No.40 アテネ劇場でエンタツ・アチャコ(昭22.3.25)

 昭和22年3月25日の神奈川新聞に掲載されたアテネ劇場の広告。

 エンタツ・アチャコの映画「忍術道中記」を上映するという予告である。

 エンタツとは、横山エンタツのことで、大正・昭和期の漫才師・俳優。

 アチャコというのは花菱アチャコのこと。同じく大正・昭和期の漫才師・俳優である。二人はコンビを組み、現在の漫才スタイルを作った。

 杉田劇場が歌舞伎にこだわっている頃、アテネ劇場では映画に取り組んでいた。


No.41 東京歌舞伎の市川門三郎が再登場(昭22.3.18)

 昭和21年6月1日に初登場した東京歌舞伎の市川門三郎一座。その後は7月まで何度か公演があったことが分かっているが、8月以降は出番がなかったようである。

 そして昭和22年3月16日より久々の公演が始まった。昼夜入れ替えなしで行われたのは「本朝二十四孝」、「おその六三」、「朝顔日記」だった。

 アテネ劇場では映画の上映が増えていくなか、こちら杉田劇場は相変わらず歌舞伎を中心とした番組が続いていった。



No.42 昭和22年4月1日の劇場案内

 戦争が終わって約1年半後の新聞広告である。早くもこんなに映画館ができていることが分かる。主な映画館をみると…

 オデヲン座「アメリカ交響楽」/マックワーサー劇場「希望の青空」/六角橋會館「或る夜の殿様」/保土ヶ谷東宝「今宵妻となりぬ」/横濱松竹「バラ屋敷の惨劇」/アテネ劇場「娘よ何故さからうか」/新光映画劇場「砂塵」/レアルト劇場「征服」/光音座「妻と女秘書」などだ。

 映画館情報だらけの広告の中で、実演を専門にやっている館が2つあった。杉田劇場では「市川門三郎一座」が、銀星座では「自由劇団」が公演をしていた。映画が全盛になりつつある中で、両館はかたくなに実演にこだわっていたようである。


No.43 アテネ劇場では映画と実演(昭和22年4月8日)

 昭和22年4月8日に掲載された広告。

 映画は小津安二郎が監督した「淑女は何を忘れたか」

 出演者は上原謙。加山雄三の父親である。他に出ているのは佐野周二。こちらは関口宏の父親だ。この二人に佐分利信を加えて「松竹三羽烏」と言われていた。

 同時上映は「ユナイテッドニュース」で、平日は正午、日曜祭日は午前10時の開場だった。実演ではエノケンが出演していた。



No.44 アテネ劇場でエノケン映画(昭和22年4月15日)

 昭和22年4月15日に掲載された広告。

 ゛花のお江戸で生ぐさ坊主の法界坊が腹をかかえる程の大暴れ!!”との宣伝文をつけて『エノケンの法界坊』を紹介している。

 共演しているのは小笠原章二郎、宏川光子、英百合子らである。このうち宏川光子という女優は、エノケン一座で榎本健一の相手役として多くの映画に出ていた。

 広告には翌週からの演目も書かれている。

 『春姿五人男』。どんな映画だったのだろうか。


No.45 アテネ劇場で「喧嘩鳶」(昭和22年6月3日)

 昭和22年6月3日に掲載されたアテネ劇場の映画広告。往年の名作「喧嘩鳶」が上映された。

 出演者は長谷川一夫、黒川弥太郎、山田五十鈴、花井蘭子らである。黒川弥太郎という役者は、磯子区中原の出身であった。現在、杉田や中原には「黒川」と名の付くお店があるが、親せき筋なのだろうか。

 南区の中村橋商店街にある「弥太郎最中本舗」は、その親戚が営業している老舗の和菓子屋さんだ。もともとは「金喜堂」という店名だったのだが、初代のお父さんが黒川弥太郎のお母さんと兄妹だったので、「弥太郎を応援しよう」という思いを込めて店名を変更したそうだ。



No.46 美空和枝@横浜復興会館(昭和22年6月24日)

 昭和21年4月に旧杉田劇場で初舞台を踏んだ加藤和枝はその後、神奈川県内の各劇場に出演するようになる。

 これは昭和22年6月24日の広告。「ハマが生んだベビースイング歌手」として横浜復興会館で歌っている。旧杉田劇場に出たときの芸名は美空一枝だったが、ここでは和枝になっている。バックバンドは「楽団スター ミソラ ハワイアンズ」。

 ポリドールの歌手、及川一郎と一緒の舞台に立ったようだ。

 その隣には旧杉田劇場の広告。相変わらず歌舞伎を上演している。


No.47 美空和枝@湘南映画(昭和22年7月1日)

 「ハマが生んだベビースイング歌手」として横浜復興会館で歌った1週間後、今度は湘南映画の舞台に立った。映画館の正式名称は湘南映画劇場だろうか。閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベース「消えた映画館の記憶」によれば、藤沢市辻堂若松町2233に同名の映画劇場があったことが分かる。

 ここでの公演にも楽団の名前が記載されている。旧杉田劇場に出演した昭和21年には「ミソラ楽団」であったが、あれから1年半後の舞台では、6月の復興会館での公演と同じ「楽団スター ミソラ ハワイアンズ」。

 今回もポリドールの歌手、及川一郎と一緒の舞台に立っている。興行を仕切っている人物がいたのだろうか。



No.48 貿易再開を祝して(昭和22年7月1日)

 終戦から2年後の昭和22年(1947)、民間貿易が再開された。

 この日の広告によると、その貿易再開を祝して、杉田劇場では市川門三郎大一座による歌舞伎と剣劇が9日間にわたって興行された。

 1日から4日までは明治一代女、新吉原、涙雨五千両。つづく5日から9日までは鞍馬天狗、紙治、深川音頭だった。

 涙雨五千両は、昭和21年3月頃、大高ヨシヲ一座が杉田劇場で上演していた。

 

 貿易を再開したものの、サンフランシスコ講和条約が発効する昭和27年(1952)までは、日本からの輸出品には「MADE IN OCCUPIED JAPAN(メイド・イン・オキュパイド・ジャパン)」の刻印が義務付けられていた。


No.49 ニュー・ショーボート(昭和22年7月15日)

 昭和22年7月15日の広告。東京歌舞伎の市川門三郎一座が来て、剣劇の暁劇団と合同で公演をしたようである。暁劇団というのは大高ヨシヲ一座のことで、座長の大高が亡くなったあとも続いている。

 15日と17日は「鞍馬天狗」と歌舞伎、時代劇の3本立てであったが、16日にはニュー・ショーボートという番組が組まれている。

 ショーボートというのは「日本大百科全書」によると、船中でショーを見せることを目的に運航されたアメリカの艦船だという。それに「ニュー」の文字を付け加えているので、なんとなくアメリカっぽい雰囲気を感じさせる。見にくいが横には「軽音楽と楽劇」と書いてある。

 どうやらミュージカルのようなもののようだ。杉田劇場も少しは時代の流れにのってきたのかもしれない。



No.50 横浜国際劇場で拳闘大試合(昭和22年7月29日)

 これは昭和22年7月29日の神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の広告。それによるとこの日にボクシングの試合が行われたようだ。

 リングに上がったのは堀口兄弟、青木、猿田ほか。堀口兄弟というのは、ピストン堀口と弟の堀口宏で、猿山は猿山信治のことだろう。

 浪曲の夕べに出た春日井梅鶯は旧杉田劇場にも出演していた。昭和21年4月21日の新聞で、浪界随一の美聲を誇る人氣王 久しぶりに聞く名調子とのキャッチコピーをつけて紹介されていた。


No.51 安来節大会と浪曲の夕(昭和22年7月29日)

 横浜国際劇場が、ピストン堀口を招いてボクシングの試合を開催するとの広告を出した同じ日に、杉田劇場はこんな広告を出していた。7月30日に安来節大会を、31日には浪曲の夕をやるというのだ。

 この日の劇場・映画館案内には数多くの施設が広告を出しているのだが、そのほとんどは映画だった。

 そんななかで、杉田劇場は相変わらず浪曲や時代劇、歌舞伎などといった古い芸能番組を組んでいた。

 その結果、翌年から経営が苦しくなっていくようである。



No.52 大型扇風機で涼しいアテネ劇場

 昭和22年8月5日の神奈川新聞に掲載されたアテネ劇場の映画案内。

 広告のトップは「大型扇風機取付完備 涼しいアテネ劇場へ」という設備の良さをアピールするコピーである。

 冷房などあるわけもなく、閉め切った館内は暑かったに違いない。そこで大型扇風機を回して風を送っていたのだろう。

 そんな涼しい映画館でかかっていたのは「大江戸の鬼」。1947年の作品で、北町奉行遠山金四郎役は黒川弥太郎、町娘おなつ役は高峰秀子だ。実は二人とも磯子区にゆかりのある役者である。

 黒川弥太郎は中原の出身、高峰秀子は松山善三と結婚して滝頭に住んでいたそうだ。


No.53 市川門三郎一座 壺坂霊験記 全通し

 昭和22年8月26日の神奈川新聞に掲載された広告。

 市川門三郎一座が壺坂霊験記を演じている。この広告だけでは分からないが、24日から28日までの5日間の興行だったようである。

 これは明治時代に作られた浄瑠璃の演目で、盲人とその妻の夫婦愛を描いている。歌舞伎や講談、浪曲の演目にもなり人気を集めた。ここでは浄瑠璃にはない雁九郎という悪者が登場する。それを演じるのは門三郎で、盲人の沢市役との早替わりも見ものだったようだ。女房のお里役は市川女猿。独立行政法人日本芸術文化振興会の文化デジタルライブラリーによると、女猿は昭和12年から39年まで活躍した役者のようである。 



No.54 節電ナイトショウ

 昭和22年9月2日に掲載された杉田劇場の広告。節電ナイトショウと銘打って7日間の番組が組まれている。

 2日、3日は近江姉妹のアクロバットショウ。二日連続だ。今までの歌舞伎や時代劇とはずいぶん様子が違う。

 4日は演芸大会。

 5日は歌謡ショウとお笑いショウ。

 6日は山村舞踊団が来た。日本舞踊だろうか。美人の総出演が気になる。

 7日は安来節大会。

 最終日の8日は浪曲大会だ。どれも写真が不鮮明で分かりにくいのが残念である。

 次の予告として前進座の案内が載っている。12日~14日の3日間の公演だ。前売り券を売っていたことが分かる。


No.55 前進座来たる!

 昭和22年9月9日に掲載された広告。13日・14日の2日間、杉田劇場で3本だての公演を行っている。1本目は八木隆一郎作「故郷の声」。この人は阿部豊と一緒に東宝映画「南海の花束」の脚本を書いている。第54回いそご文化資源発掘隊で取り上げた映画だ。

 2本目は岡本綺堂作「唐人塚」。そして3本目は「文七元結」。新聞広告では河竹黙阿弥作と書かれているが、ウィキペディアでは三遊亭圓朝の創作とされている。

 この3本を公演した前進座は昭和6年(1931)に創立した老舗の劇団で、昭和21年11月から大劇場公演を打ち切り、学生、一般勤労青年を対象に、全国の学校講堂、公会堂に出かけていくようになった。その中に旧杉田劇場も入っていたようだ。

 入場料は30円となっているが、当時は入場税が150%だったので、本体価格が12円、入場税が18円だったことになる。