片山茂さんは旧杉田劇場の経営者・高田菊弥の甥であり、同劇場の従業員でもあった。彼の記憶から…

「杉田劇場の今と昔」~杉田の浜 栄華の舞台今いずこ~

 

 Ⅰ 戦争が終わってさあ…大変!

私は22才の時(長野県木曽郡南木曽東吾妻出身)、昭和209月に信州木曽谷より叔父高田菊弥(19101976、長野県木曽郡南木會出身)を頼って横浜に来ました。この街は、敗戦の生々しさが、そのまま残っており、復興の意欲もないままの状態でした。

叔父の工場(名称:東機工 所在地:横浜市磯子区杉田町字浜2184番地)も敗戦と同時に操業停止となり、他に働く場所もなく食べるものも無い毎日でした。工場の方には職人さんが何人か残っており、職人さんの思いつきで、工場に残されたアルミニュームの板で鍋を造り、叔父と二人で厚木・秦野方面まで食料と交換のために行き、大変苦しい生活でした。

これから先の生活について、どうしたらよいか、毎晩職人さんを含めて話し合いました。 まして工場の再建は不可能でもあり、色々と迷ったが、叔父の思いつきで芝居小屋でも始めようか…との発言で、一同はあまりにも予想外の出来事にただ唖然としたが、他に良い案もなく、叔父高田にここは一任するにして、芝居小屋の準備にかかりました。

これには、早速、芸能界の実力者の鈴村義二(18981969)先生に電話し協力を頼んだ。 当時の鈴村先生は台東区の区会議員で、浅草の芸能界では有名人でした。高田とは戦時中よりの昵懇の間柄で、すぐに承諾してくれ、 11月初めに鈴村先生が杉田を来訪されました。

そして芝居小屋の開設の作業を始めたが、幸い東機工(日本飛行機の下請会社、昭和16年~208 高田菊弥経営)当時の職人さんが何人か残っていたので、急ピッチで場内の壁にベニヤ板を張り、何とか格好がつき、次には、客席の椅子(五人掛け用)が運び込まれ、劇場の雰囲気がでてきました。

かくして暮の1220日頃には大方の工事が終り、昭和2111日の開演を待つだけとなり、一同開演の日を期待をもって迎えたのでした。そして出演者の件は、一切、鈴村先生に一任で、当日は喜劇と漫才、昼夜二回の興業でした。

当日は昼夜とも満席でしたが、若い女性の姿は見当らなかった。というのは、近くにアメリカ駐留軍のキャンプがあり(注:杉田4丁目521、旧字浜2196番地先の現歩道橋の下部分(産業道路)浜寄りにカマボコ兵舎が2棟あった)、そのため住民は皆、暗黙のうちに、 若い女性は米軍人に近よってはいけないこと、またアメリカ兵と逢ったらすぐ建物に入れ…との噂が流れていた時代でした。

こんな中で、芝居小屋も開業と同時に「杉田劇場」として出発し、営業を始めたが、アメリカ軍人のフリーパスには、大変困りました。2,3人で組んでの入場は、言葉も通じないし黙って見過しておりましたが、ある時、あまりのひどさに切符切りの女性が入場できないことを態度で示すと、いきなりアメリカ兵から平手打ちを食わされ、彼女は片耳の鼓膜が破れ、音が聞こえにくくなったが、 当時のアメリカ軍人との問題を訴える窓口もなく、皆、泣き寝入りでした。言葉も通じないことの禍いと敗戦の空しさをしみじみと味わいました。この事件後は、アメリカ軍人の出入りは、目をつむるようにしたが、言葉の違う国の芝居を見てもつまらないようで、段々と入場するヤンキーも少なくなりました。

この頃、劇場の客席は土間だったが、雨の日は足もとがすべって危ないとのことで一日休館として、アスファルト敷きにし、少し格好が良くなりました。

昭和212月に入り、大高ヨシヲ劇団の出演依頼があり、劇場幹部との話し合いで2 中旬よりの出演が決まりました。ただ、私は除外者でしたが…。2月に入り、本格的な芝居となるために舞台の大道具の製作で毎晩舞台の終わった後、鈴村先生の指揮で明け方まで手伝い、開演の準備をしました。小道具類は、弘明寺観音様のウラの方に山本小道具店があり、狂言の変るごとに店に借り入れに行き、リヤカーを引っぱり栗木の坂道を通り(浜中学校手前の切り通し・杉田3丁目29から栗木2丁目の笹下道路)、上大岡の花街を通って山本小道具店に通いました。当時の道路はデコボコ道だったので、リヤカーを引くのに大変苦労しました。

 

2月中旬、大高ヨシヲ劇団の公演が始まりました。座長大高ヨンヲの男顔の良さと芸の上手さで、たちまち大人気となり、毎日盛況でした。なかには座長大高ヨンヲ様に逢いたい一心で、毎日湘南の藤沢から通った客もおりましたが、団員の休暇もあり、その間に東京より 有名芸人の出演も行い、間をつなぎ興業していました。


「杉田劇場の今と昔」~杉田の浜 栄華の舞台今いずこ~

 

Ⅱ 美空一枝ちゃんのこと

昭和213月中旬、加藤喜美枝さんは、その娘の和枝ちゃんを連れ立って杉田劇場に出演依頼に来ました(注:和枝ちゃん8才と10ヶ月の時)。昭和20529日、和枝ちゃんの8才の誕生日は、「横浜大空襲」の真際中であった。まさに横浜の戦争時を生きた「申し子」といえましょう。

当時は、劇場の方も大高ヨシヲ劇団で大変な盛況の日が続いておりましたので、「さてどうしたものか…?」と迷いましたが、劇場幹部は話し合いに一応予定はすることに決め、一週間くらいあと、大高ヨシヲ劇団(配役の看板)を劇場入口の窓に貼る片隅に、小さく「歌、加藤和枝」と記載されていましたが、今にして思えば、喜美枝さんは大変気に入らなかったのでは…と思います。

さて当初3月中旬から2週間、加藤和枝は「織帳の前」で唄った。そのウラ側ではどうしたことか、舞台作りの大道具の騒音のなかで、また芝居見物の客も幕あいで庭の海辺に出る人、さらに売店に行く人、お茶を飲みに行く人など、場内はパラパラの客の状態でしたが、 その中でただ一人で一生懸命に真面目に歌う彼女の姿を鈴村義二先生はジッと見ており、 その後ある日、鈴村先生より、劇場従業員の集会の時、「加藤和枝を緞帳前でなく本舞台に立たせたい。そのためには、和枝一人では駄目だ。彼女に楽団をつけて、名前も加藤和枝でなく芸名を考えよう」との提案があったが、そのときは賛成もなく、また反対もしなかった。

その後4月初めに鈴村先生の強引さと努力で楽団もでき、芸名も美空一枝に決まり、舞台は、大高ヨシヲ劇団の狂言の変わり配役の一幕二幕の間に、美空楽団の「歌とおどり」を大きく書いて劇場入口の窓に貼り、そして美空一枝もやっと緩帳の前を卒業したのでした。(注:この時に作成されたと思われる手書きのポスターが現在伝承されている。このポスターは宣伝部の厚木さんが3月末に作成した。 昭和214月、彼女が811ヶ月の時点である)

美空楽団も本舞台に立つように決まり、歌の上手さと誠実さが人気を呼び、美空楽団開演中も席を立つ人が少なくなり、評判もあがって来ました。こんな時、母も娘と一緒に入口横の窓のポスターを少しの間、ジッと離れずみつめながら、目頭を押さえ涙を拭くように楽屋入りしました。窓のポスターに美空一枝の名が大書きされていたことが、大変母にとって 嬉しかったようでした。

後日、劇場の従業員への差入れがなされ、私も戴きました。その後、本舞台での美空一枝も益々磨きがかかって、人気がよかったことと、緞帳前で歌った小娘の才能を信じて、それをトコトン応援した鈴村先生の「先見の明」の素晴らしさに感服している今日此の頃です。

今は、加藤和枝、加藤喜美枝、高田菊弥、 鈴村義二、佐藤(愛称王ちゃん)と、当時の関係者全員がこの世を去って行ってしまった。私は、独り当時を語り合える人もいなくなり本当に光しい限りとなりました。(つづく)