いそご文化資源発掘隊 「旧杉田劇場の思ひ出」座談会の記録

↑リハーサル室に集まったお客様は60名!

↑右から田中耕多さん、水野直春さん、関フミ子さん、司会の中村館長

↑昭和27年に旧杉田劇場で学芸会をやった鈴木さんと集合写真

↑市川雀之助一座が演じた「四谷怪談」の広告(昭和23年7月11日 神奈川新聞)

↑旧杉田劇場の緞帳

↑市川女猿と彼のサイン

↑現代の市川雀之助か……?

↑市川雀之助のお孫さん

↑上段は旧杉田劇場の新聞広告 下段は葡萄座のポスター

↑昭和24年に旧杉田劇場で学芸会を行った浜中学校の生徒たち。演目は「別れのワルツ」

↑葡萄座の公演。ボルガ収容所(昭和23年10月29日~31日)

↑旧杉田劇場最初の新聞広告(昭和21年4月10日 神奈川新聞)

↑旧杉田劇場の平面図と位置

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中村 これから座談会を始めます。まずは田中さんからお話をお聞きしたいと思います。

田中 杉田劇場ができた昭和21年、私は8歳でした。昭和13年生まれだからね。

中村 美空ひばりが昭和12年生まれだから、1歳下なんですね。昭和20年代の杉田って、どんなでしたか。

田中 我が家は孫を入れて5代、杉田小学校に通いました。私が入学したのは昭和20年4月です。戦争が終わったのが20年8月なので、4か月だけ通いました。

 その頃はみんな疎開していて、学校にいたのは1,2年生だけでした。1学年30人くらいだったかな。

 空襲警報が鳴ると、すぐ家に帰されました。だからあまり通っていないのです。

 戦争が終わって学校に通いだすと、食糧難だったのですが、すぐに給食が始まりました。コッペパンと脱脂粉乳でしたけどね。

 やがて疎開先からみんながどんどん帰ってきて、6年生になったときは1クラス60人くらいで、5クラスもありました。

 当時は遊びといったって何もなくて、縄跳び、鬼ごっこ、跳馬なんかをやっていました。

中村 関フミ子さんは田中さん、水野さんより8歳お姉さんで、実家は「菓子一」(大正11年創業)だったんですよね。子どもの頃のひばりちゃんが杉田で歌っていたそうですね。

関さんはひばりちゃんより7歳年上なんですよね。ということは当時、中学生?

 そうです。杉田劇場にひばりちゃんが来たときは、幕間に外に出て一緒に石けりなんかをして遊んでいました。そんなこともあって、劇団の人から優待券をもらうこともありました。

中村 さて、水野さんと田中さんは浜中学校のときに、杉田劇場を借りて学芸会をやったというお話を聞きましたが、その辺のことを。

水野 浜中学校には毎年、学芸会というのがありました。しかし、当時の学校には講堂がなかったので杉田劇場を借りてやったのです。昭和27年のことですが、同級生のオダ君のお母さんと、ヤマノイ先生が歌舞伎好きということで、お二人に指導されて「勧進帳」をやりました。主役は武蔵坊弁慶ですが、私は義経をやりました。

【ここでセリフを披露】

 最後は弁慶の花道飛び六方で終わるという劇でした。

 私は杉田劇場で市川門三郎や市川雀之助の芝居をよく見せてもらっていました。というのも、私の父親は杉田劇場の経営者・高田菊弥さんと親しくしていて、そんな関係でたぶん入場券をいただいたんでしょうね。

 「おまえ、見に行って来い」ということで、よく観劇させてもらっていたのです。

 今日は、市川雀之助さんのお孫さんが来られていて、そこでお目にかかれて大変感激しております。

 それから昭和27年の学芸会では、「安寿と厨子王」をやった組があって、その厨子王役を演じたのが、杉田商店街で「魚七」という魚屋さんをやっていた鈴木さんで、彼にも来ていただいております。杉田劇場の裏庭で写した集合写真を持ってきてもらったので、その時のことを……。

中村 すみませんね。急に振られちゃって。

鈴木 これがその時の写真です。演劇が終わってから庭で撮影しました。杉田劇場を借りて学芸会をやったのですが、なんだか歌舞伎の聖地、歌舞伎座に行ったような気がしました。

 今でも覚えているのは、藁(ワラ)を持って、それを道具でたたいているシーンです。安寿はこの人で(写真を指差す)、悪者にさらわれて行くので、私がそれを追いかけるのですが、そのあとは記憶が無くなっちゃいました。

 舞台は上がるだけではなく、劇を見に行ったこともあります。一幕ごとに舞台の模様替えをするのですが、そこで釘を打つ音が聞こえて、それがだんだん小さくなり聞こえなくなると、「もう済んだのかな」とワクワクして待っていたもんです。

 美空ひばりに関していえば、あの当時から芸名を使っていましたよね。本名は加藤和枝ですが、美空一枝と名乗っていました。

あの頃は杉田に公設市場があって、あの中に「魚増」さんもあったんです。うちの「魚七」とだいぶ接近していて、うちの親父は商売敵が来たとか言っていました。商売敵の娘だから親父はあまり良い印象はもっていなかったみたい。

 でも私はときどき見に行っていました。アコーディオンを持った人を連れてきて、ミカン箱の上に乗って歌っていたのを覚えています。

田中 「勧進帳」の話に戻りますが、私は門番の役をやっていました。長い棒を持って立っているだけで、たしか「ご苦労様です」くらいのセリフしかなかったと思います。

 夏休みは杉田劇場で納涼大会をやっていました。その時は「四谷怪談」で、赤・青・緑・黒で恐怖を覚える顔立ちになりまして、うちに帰ってから夜、トイレに行けなくなった思い出があります。

 夏はよく杉田劇場に行きました。劇場の裏が海だったので、海から松林のある庭に入って涼んでいました。

 田中さんのお話を聞いていて思い出しました。市川門三郎の「俊寛」というのをはじめて見て、歌舞伎って奥が深いものでビックリしました。それから「白波五人男」。五人が傘を広げて大見得を切ったのを見て、こうやるのかぁと思いました。

 歌舞伎というの、私たちは今まで見たことないし、ああ、すばらしい芸人さんがいるんだと感じました。

 それから「お富さん」も観ました。

水野 旧杉田劇場の緞帳が映っている写真がありますね。懐かしいお店の名前が書かれています。平野歯科医院、石川牛肉店、これらは今でも杉田の町でやっていますね。

 今日、後ろの壁に市川女猿の写真が貼ってありますが、平野歯科のお婆さんが女猿に夢中になっていました。私も演目が変わるたびに観に行ったものです。私が芝居好きになったのは杉田劇場で市川門三郎、市川雀之助を観てからです。今でも歌舞伎は観に行っています。

中村 女猿さんって、そんなにきれいだったんですか。

水野 それはもう、すごかったです。今でいう追っかけもたくさんいました。

中村 劇場の施設はどうでしたか。

水野 トイレは外にあったのですが、昔のドッポン式ですから、すごい臭いがしていました。

 海辺にありましたから、引き潮になると海から劇場に入れました。満ちてくると、波の音がジャポン、ジャポンと聞こえました。

 そうそう、広沢虎三が来て浪曲もやっていました。

  浪花節ね。

中村 さて、ここらへんで会場の皆様にも参加していただきます。昔の杉田劇場に来たことあるという方、いらっしゃいますか。

数名の方から手が上がりましたが、あとでお話をしていただくとして、今日は、なんと、新潟から駆けつけてくださった方がいらっしゃいます。こんなに年配の方々がいるなかで、なぜ、このような若い方が、しかも新潟から来られているのか、不思議に思われるかもしれませんが、実は市川雀之助さんのお孫さんなのです。今日は遠いところから、どうもありがとうございます。

佐藤 私の祖父が20代のころ、市川雀之助という名前で役者をしていたという話が実家で伝わっています。しかし、新潟の震災で資料は全部なくなってしまったので、昔の詳しいことはあまり伝わっていません。

 両親は役者をやっていた頃の祖父については、あまり気に留めていなかったのですが、私自身は「お爺さんはどんな役者だったのだろうか」、「どこに出ていたのか」と個人的に気になっていました。ですが、昭和20年代のことは、私の力では調べることができませんでした。

23年前、インターネットで見つけたのが、横の壁に貼ってあるカラーポスターです。しかし、現在、市川雀之助という大衆演劇をされている方がいるので、このポスターに写っている人が私の祖父なのか、あるいは今活動しているその方の若いころの写真なのかは不明です。

 そして今年の初めころ、あらためてネット検索をしていたら、杉田劇場のブログに雀之助の名前が出ているのに気づき、読んでみると私の祖父と年代的にも同じなので、もしかしたら祖父なのかと思い、ブログ記事にコメントさせていただき、今日、このような催しがあることを知りました。

 私の祖母は当時、「追っかけ」をしていた女性だったのですが、なんと市川雀之助と結婚してしまいました。結婚後、雀之助は福島に移り住み、その後、新潟に転居し、私が1歳半くらいのときに亡くなっています。そして今日、私がここにいることが夢のような感じでいます。

中村 ありがとうございます。どうですか、今日、いろいろお話を聞いたり資料を見たりして。

佐藤 私が小さいころは祖父が昭和の歌謡曲をよくかけていたそうなのですが、そんな曲を私も最近聴くようになって懐かしくなってきています。

 こうして古い資料に囲まれていると、自分のルーツを調べる力が湧いてきます。

中村 田中さん、何か思い出したみたいですが…

田中 杉田劇場は昭和21年にできて数年で消えてしまったのですが、あの頃はだんだん映画館ができてきて、みなさん生の演劇よりも映画の方へ移っていってしまったんですね。娯楽が豊富になってきたことや、都心部に劇場や映画館がたくさんできてきたことなんかあって、杉田劇場のお客さんはそっちに流れて行ってしまったのでしょうね。

水野 杉田劇場にひばりさんが出たというのは、杉田にいた鈴村義二さんが関わっていました。鈴村さんは浅草の興行では有名な方でした。奥さんは浅草で芸者をしていた人です。

 鈴村先生と杉田劇場の高田菊弥さんは親しくしていたのですが、その鈴村さんにひばりのお母さんが頼み込んで杉田劇場に出させてもらったんじゃないかなと思っています。

 鈴村先生は杉田八幡の手前のところに一軒家を借りて住んでいたので、私はそこで先生の奥さんに民謡を習っていました。

中村 先ほどお聞きしましたが、昔の杉田劇場にいらしたことある方、ちょっとお手をお上げいただけますか。

 無声映画をよく観ました。市川雀之助さんの「瞼の母」は頭に残っています。

水野 西村小楽天なんていう当時有名な弁士も来たんですよ。

 昭和35年から金沢区に住んでいます。公表されている杉田劇場の成り立ちは、私が母から聞いている杉田劇場とは、若干違うように思うのでお話させていただきます。もしかしたら私の記憶違いかもしれませんが…。

 私は昭和17年生まれです。当時は父親も元気で、今はJRの高架下、劇場跡地の記念碑があるあの場所で、劇場ができる前に材木屋をやっていました。材木商です。

 母から聞いた話では、杉田劇場の庭になる部分で材木屋をやっていたというのです。うちはそこの地主でした。

 父親は戦死したので、戦後は父親の実家(日野)に住んでいました。日野から山を越えて杉田劇場まで地代をもらいに行っていました。その時のやり取りの記憶はないのですが、母の話では地代をもらえなかったようです。

 そして、これは記憶にあるのですが、再び山の中をエッチラオッチラと登って日野まで帰った、そういうのを覚えています。

 杉田劇場に関していえば、劇場の中に入って舞台を見たとき、舞台装置があって心が弾んだことを覚えています。

 そのあと杉田劇場が閉館するまでの地代はどうなったのかは分かりません。杉田劇場を始めた高田菊弥さんは日本飛行機の下請けで材木屋をやっていたそうですが、私の父もそれ以前に同じ場所で材木屋をやっていたのです。杉田劇場はその木材を使って造られたわけです。

C 17歳の時に一度だけ入ったことがあります。断片的な記憶しかありませんが、入場料を払ったかどうか覚えていません。入口から入ると丸太の敷居がありました。それから、先ほどのお話にも出てきたトイレ、あれはまさにそのとおりでした。臭かった……。

 浜中の学芸会を観るために杉田劇場に入ったことがあります。波の音と、トイレのくさい臭いを覚えています。

 あのころの杉田は市電が走っていて、海も近くてよかったですね。アサリも採りに行きました。

 杉田劇場にはあまり行ったことはなかったですが、アテネ劇場にはよく行きました。

 杉田劇場に出た美空ひばりは記憶にないのですが、浜のアテネ劇場に出ていたのを観に行ったことがあります。

 そこの壁に昔の杉田劇場の広告が貼ってありますが、その中に黒川弥太郎が出ていますね。この人は中原の出身で、美空ひばりとも映画で共演していたのを覚えています。

 葡萄座が「ボルガ収容所」というのを公演していますが、その中で「異国の丘」が歌われました。

 杉田という町を一言でいうと、古くて新しい町です。静から動へと転換する町だと思います。昭和から平成へと移り、そして間もなく新しい元号になりますが、こうして杉田の文化や歴史が残されているというのは、たいへん素晴らしいことです。

旧杉田劇場がオープンしたのは昭和21年、そして新しい杉田劇場が平成17年にその名を引き継いで開館しました。これは名誉なことです。杉田の人たちが歴史を伝えてきたと思います。

 今、新杉田ケアプラザで毎月一回、杉田の歴史講座の講師を務めています。今まで仲人を何回もやってきましたが、私はひばりの大ファンでして、「ひばりのことを話すよ」というのが条件で引き受けてきました。杉田劇場があるころは小学生だったので、中に入ったことはありません。

 一時、ローラースケート場として使われていたことがあり、その前を通るとスケートで滑る音がよく聞こえてきたことを覚えています。

 杉田小学校の健康診断は磯子保健所(現在磯子地区センターのある場所)でやっていて、そこまで歩いて行くのですが、引率の先生がひばり御殿の前を通って行くのです。ファンだったのでしょうね。表札は加藤増吉と美空ひばりの二つが架かっていました。それを見て、「あ~、ここがひばりの家なんだ」なんて言いながら保健所まで行ったことを覚えています。

 戦後間もなくは和菓子の材料が入ってこなくて、店を貸していました。フクヤさんというお店で、おでんとか甘酒をやっていました。そこのオバサンがひばりちゃんが好きで、歌ってもらっていました。身体は小さいのに、すごく歌がうまかったです。歌い終わると、「おばちゃん、ありがと」といって可愛い声であいさつをしていました。

 おばちゃんは「この子はきっと成長するね」と言っていました。

水野 私はこんにゃく店をやっていたのですが、コンニャク新聞という業界紙があって、その昭和33年の記事を持ってきました。そこにはこんなことが書いてあります。「桜木町から大船を結ぶ桜大線がつくられると、根岸湾は埋め立てられる運命にある。今はその海を眼下に眺めることができる屏風ヶ浦の丘の上に、4,000万円のひばり御殿がある。」

 間坂の上にひばり御殿があったんですね。彼女が小林旭と結婚するとき、あそこから花嫁姿で出て行ったんです。そこは今、マンションになっています。

 私は現在、81歳です。26歳のときから杉田に住んでいますが、その前は港北区の中山、現在は緑区のエリアですが、そちらに住んでいました。農家の刈り入れが終わると、10月に秋祭りをやります。神社には舞台があり剣劇の浅香光代さんなんかが出て、色々なことをやるのですが、私はそういうのを見に行ったことがあります。そのとき母親と一緒に来ていた私と同学年の加藤和枝が歌っていたのです。

 旧杉田劇場ができたときは、3か月くらい国道に行列ができていたそうです。私は成人してから京浜急行に勤めていたのですが、あのときは会社として増収になったという話が伝わっています。

中村 どうもありがとうございました。今日は貴重な資料をお持ちいただいたり、あるいは再発見、新発見となるお話などをお聞かせいただきました。本日の様子は録画しておりますので、文字に起こして何らかの形で記録として残していきたいと思います。まだまだ話したりないという方もいらっしゃるかと思いますが、このあとは5階ホールでライブコンサートがあり、そちらに行かれる方も大勢いらっしゃるので、ここで本日の座談会はお開きとさせていただきます。【了】



■当日、登壇予定だった「菓子一」の相原さんは体調不良で欠席となりましたが、事前にこのような手記を送ってくれました。

 

 

旧杉田劇場での、ひばりちゃんの思い出

          和菓子「菓子一」相原一郎

 

 旧杉田劇場は終戦の翌年正月、昭和211月元旦にオープンしました。杉田在住の高田菊弥氏によって、国道16号下り線にあった深野マルヤ旅館の横に杉田劇場が建てられたが、もと日本飛行機 () の下請会社のオーナーであった高田氏が工場を改装し建てられました。

定員は320名程で、ロビーには売店などがあり、観客席から裏口の木戸を開けると、5 6 m先には波が打寄せる海があり、周囲には草が生え所々に松の木があり、大人の人は海を見ながらタバコをふかし、子ども達は草の生えている所で縄跳び等をしていました。

舞台の幕を新調するお金もなく、私の一年先輩で近所に住んでいた絵の先生 (浜中・鎌倉女子大で教授をしていた)間辺典夫先生が無料で、この幕に杉田の名所であった杉田梅林と、波打ち寄せる屏風ヶ浦の絵を画き、下段に協力してくれた商店街のお店名や個人名を入れて立派に完成いた しました。

この年の4月頃、地元滝頭に住む小さな女の子が、当時戦後の歌謡曲第一号の並木路子の「リンゴの唄」や、笠置シズ子のロック調「東京ブギウギ」を唄って、子どもにしては凄いねと結構評判になりました。この「チビッ子」の歌手こそ誰あろう、後に歌謡曲のトップスターの名をほしいままにした、「美空ひばり」の幼き日の姿でした。

 

当時の芸名は美空楽団(叔父さんと、もう一人は男子のギタリスト)と云い、歌手のチビッ子は美空一枝と云う名前でした(本名は加藤和枝)。父親は加藤増吉と云い、滝頭の市場で「魚増」と云う店名で出店していて、後に杉田公設市場へも「魚増」と云う名を出していました。

高田さんの話によるとギャラは不要で、幕の合間に2~3曲歌わせてくれないかと、お母さんから頼まれたのが最初で、母は加藤喜美枝といい、今で云う「ステージママ」 の走りかと思います。

 

私の妹は、この和枝ちゃんと年も余り違わず、幕の合間でのお仕事を終わると、前の国道1 6 号(電車道)で石蹴りや縄跳びで遊んでいました。目のくるりとした和枝ちゃんは、 同年配の子供たちと、誰とでも、仲よく遊んでいました。

当時は車も少なく市電の軌道もあって、チンチン電車が走って6番系統の札を電車の前に下げて、六角橋~杉田間を走っていました。

自動車も進駐軍のトラックや小型のジープが主で、日本の車は自転車やリヤカーが主でした。私の家はまだ材料が入手できず、お店を「福屋」と云う喫茶店に貸していて、店の戸袋に杉田劇場の広告を貼らせてやり、興行が変わるたびに、招待券を頂き、妹は何時も利用させてもらいました。

福屋の女主人が「和枝」ちゃんの大ファンだったのですが、商売をやっているのでなかなか見に行けないので、彼女をお店へ招待して、お汁粉・甘酒・おでん等をご馳走して、その代りに和枝ちゃんは「リンゴの唄」や「東京ブギウギ」等を歌い、勿論、ギターの方も一緒に来て伴奏しておりました。店にはマイク等はありませんので、地声で歌っていました。

当時健在であった私たちの母も一緒に聞いていて、子供でよくあの難しい歌が唄えると感心していました。私たちが聞いても高音から低音まで、よく使えるな~と感心しました。後にひばりちゃんが、「七つの声」の持主だと褒めていた専門家の方もいました。

 

昭和22年頃からは「和枝」ちゃんの出演がなくなり、野毛の「国際劇場」で、当時人気コメディアン「川田晴久とあきれたボーイズ」と一緒に、あの和枝ちゃんが「美空ひばり」の芸名で、チビッ子歌姫として出演していてビックリ。続いて当時の映画「悲しき口笛」にも銀幕のチビッコスターとして登場し、シルクハットにステッキを持っての演技力で、唄も子供とは思えない演技に、一躍天下に「美空ひばり」の芸名が知れ渡り、芝居に映画にラジオにと、引張りダコの売れっ子となった事は、皆様方がよくご存知の事と思います。