第44回いそご文化資源発掘隊 「旧杉田劇場の思ひ出」座談会の記録(2019年2月24日開催)

↑リハーサル室に集まったお客様は60名!

↑右から田中耕多さん、水野直春さん、関フミ子さん、司会の中村館長

↑昭和27年に旧杉田劇場で学芸会をやった鈴木さんと集合写真

↑市川雀之助一座が演じた「四谷怪談」の広告(昭和23年7月11日 神奈川新聞)

↑旧杉田劇場の緞帳

↑市川女猿と彼のサイン

↑現代の市川雀之助か……?

↑市川雀之助のお孫さん

↑上段は旧杉田劇場の新聞広告 下段は葡萄座のポスター

↑昭和24年に旧杉田劇場で学芸会を行った浜中学校の生徒たち。演目は「別れのワルツ」

↑葡萄座の公演。ボルガ収容所(昭和23年10月29日~31日)

↑旧杉田劇場最初の新聞広告(昭和21年4月10日 神奈川新聞)

↑旧杉田劇場の平面図と位置

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中村 これから座談会を始めます。まずは田中さんからお話をお聞きしたいと思います。

田中 杉田劇場ができた昭和21年、私は8歳でした。昭和13年生まれだからね。

中村 美空ひばりが昭和12年生まれだから、1歳下なんですね。昭和20年代の杉田って、どんなでしたか。

田中 我が家は孫を入れて5代、杉田小学校に通いました。私が入学したのは昭和20年4月です。戦争が終わったのが20年8月なので、4か月だけ通いました。

 その頃はみんな疎開していて、学校にいたのは1,2年生だけでした。1学年30人くらいだったかな。

 空襲警報が鳴ると、すぐ家に帰されました。だからあまり通っていないのです。

 戦争が終わって学校に通いだすと、食糧難だったのですが、すぐに給食が始まりました。コッペパンと脱脂粉乳でしたけどね。

 やがて疎開先からみんながどんどん帰ってきて、6年生になったときは1クラス60人くらいで、5クラスもありました。

 当時は遊びといったって何もなくて、縄跳び、鬼ごっこ、跳馬なんかをやっていました。

中村 関フミ子さんは田中さん、水野さんより8歳お姉さんで、実家は「菓子一」(大正11年創業)だったんですよね。子どもの頃のひばりちゃんが杉田で歌っていたそうですね。

関さんはひばりちゃんより7歳年上なんですよね。ということは当時、中学生?

 そうです。杉田劇場にひばりちゃんが来たときは、幕間に外に出て一緒に石けりなんかをして遊んでいました。そんなこともあって、劇団の人から優待券をもらうこともありました。

中村 さて、水野さんと田中さんは浜中学校のときに、杉田劇場を借りて学芸会をやったというお話を聞きましたが、その辺のことを。

水野 浜中学校には毎年、学芸会というのがありました。しかし、当時の学校には講堂がなかったので杉田劇場を借りてやったのです。昭和27年のことですが、同級生のオダ君のお母さんと、ヤマノイ先生が歌舞伎好きということで、お二人に指導されて「勧進帳」をやりました。主役は武蔵坊弁慶ですが、私は義経をやりました。

【ここでセリフを披露】

 最後は弁慶の花道飛び六方で終わるという劇でした。

 私は杉田劇場で市川門三郎や市川雀之助の芝居をよく見せてもらっていました。というのも、私の父親は杉田劇場の経営者・高田菊弥さんと親しくしていて、そんな関係でたぶん入場券をいただいたんでしょうね。

 「おまえ、見に行って来い」ということで、よく観劇させてもらっていたのです。

 今日は、市川雀之助さんのお孫さんが来られていて、そこでお目にかかれて大変感激しております。

 それから昭和27年の学芸会では、「安寿と厨子王」をやった組があって、その厨子王役を演じたのが、杉田商店街で「魚七」という魚屋さんをやっていた鈴木さんで、彼にも来ていただいております。杉田劇場の裏庭で写した集合写真を持ってきてもらったので、その時のことを……。

中村 すみませんね。急に振られちゃって。

鈴木 これがその時の写真です。演劇が終わってから庭で撮影しました。杉田劇場を借りて学芸会をやったのですが、なんだか歌舞伎の聖地、歌舞伎座に行ったような気がしました。

 今でも覚えているのは、藁(ワラ)を持って、それを道具でたたいているシーンです。安寿はこの人で(写真を指差す)、悪者にさらわれて行くので、私がそれを追いかけるのですが、そのあとは記憶が無くなっちゃいました。

 舞台は上がるだけではなく、劇を見に行ったこともあります。一幕ごとに舞台の模様替えをするのですが、そこで釘を打つ音が聞こえて、それがだんだん小さくなり聞こえなくなると、「もう済んだのかな」とワクワクして待っていたもんです。

 美空ひばりに関していえば、あの当時から芸名を使っていましたよね。本名は加藤和枝ですが、美空一枝と名乗っていました。

あの頃は杉田に公設市場があって、あの中に「魚増」さんもあったんです。うちの「魚七」とだいぶ接近していて、うちの親父は商売敵が来たとか言っていました。商売敵の娘だから親父はあまり良い印象はもっていなかったみたい。

 でも私はときどき見に行っていました。アコーディオンを持った人を連れてきて、ミカン箱の上に乗って歌っていたのを覚えています。

田中 「勧進帳」の話に戻りますが、私は門番の役をやっていました。長い棒を持って立っているだけで、たしか「ご苦労様です」くらいのセリフしかなかったと思います。

 夏休みは杉田劇場で納涼大会をやっていました。その時は「四谷怪談」で、赤・青・緑・黒で恐怖を覚える顔立ちになりまして、うちに帰ってから夜、トイレに行けなくなった思い出があります。

 夏はよく杉田劇場に行きました。劇場の裏が海だったので、海から松林のある庭に入って涼んでいました。

 田中さんのお話を聞いていて思い出しました。市川門三郎の「俊寛」というのをはじめて見て、歌舞伎って奥が深いものでビックリしました。それから「白波五人男」。五人が傘を広げて大見得を切ったのを見て、こうやるのかぁと思いました。

 歌舞伎というの、私たちは今まで見たことないし、ああ、すばらしい芸人さんがいるんだと感じました。

 それから「お富さん」も観ました。

水野 旧杉田劇場の緞帳が映っている写真がありますね。懐かしいお店の名前が書かれています。平野歯科医院、石川牛肉店、これらは今でも杉田の町でやっていますね。

 今日、後ろの壁に市川女猿の写真が貼ってありますが、平野歯科のお婆さんが女猿に夢中になっていました。私も演目が変わるたびに観に行ったものです。私が芝居好きになったのは杉田劇場で市川門三郎、市川雀之助を観てからです。今でも歌舞伎は観に行っています。

中村 女猿さんって、そんなにきれいだったんですか。

水野 それはもう、すごかったです。今でいう追っかけもたくさんいました。

中村 劇場の施設はどうでしたか。

水野 トイレは外にあったのですが、昔のドッポン式ですから、すごい臭いがしていました。

 海辺にありましたから、引き潮になると海から劇場に入れました。満ちてくると、波の音がジャポン、ジャポンと聞こえました。

 そうそう、広沢虎三が来て浪曲もやっていました。

  浪花節ね。

中村 さて、ここらへんで会場の皆様にも参加していただきます。昔の杉田劇場に来たことあるという方、いらっしゃいますか。

数名の方から手が上がりましたが、あとでお話をしていただくとして、今日は、なんと、新潟から駆けつけてくださった方がいらっしゃいます。こんなに年配の方々がいるなかで、なぜ、このような若い方が、しかも新潟から来られているのか、不思議に思われるかもしれませんが、実は市川雀之助さんのお孫さんなのです。今日は遠いところから、どうもありがとうございます。

佐藤 私の祖父が20代のころ、市川雀之助という名前で役者をしていたという話が実家で伝わっています。しかし、新潟の震災で資料は全部なくなってしまったので、昔の詳しいことはあまり伝わっていません。

 両親は役者をやっていた頃の祖父については、あまり気に留めていなかったのですが、私自身は「お爺さんはどんな役者だったのだろうか」、「どこに出ていたのか」と個人的に気になっていました。ですが、昭和20年代のことは、私の力では調べることができませんでした。

23年前、インターネットで見つけたのが、横の壁に貼ってあるカラーポスターです。しかし、現在、市川雀之助という大衆演劇をされている方がいるので、このポスターに写っている人が私の祖父なのか、あるいは今活動しているその方の若いころの写真なのかは不明です。

 そして今年の初めころ、あらためてネット検索をしていたら、杉田劇場のブログに雀之助の名前が出ているのに気づき、読んでみると私の祖父と年代的にも同じなので、もしかしたら祖父なのかと思い、ブログ記事にコメントさせていただき、今日、このような催しがあることを知りました。

 私の祖母は当時、「追っかけ」をしていた女性だったのですが、なんと市川雀之助と結婚してしまいました。結婚後、雀之助は福島に移り住み、その後、新潟に転居し、私が1歳半くらいのときに亡くなっています。そして今日、私がここにいることが夢のような感じでいます。

中村 ありがとうございます。どうですか、今日、いろいろお話を聞いたり資料を見たりして。

佐藤 私が小さいころは祖父が昭和の歌謡曲をよくかけていたそうなのですが、そんな曲を私も最近聴くようになって懐かしくなってきています。

 こうして古い資料に囲まれていると、自分のルーツを調べる力が湧いてきます。

中村 田中さん、何か思い出したみたいですが…

田中 杉田劇場は昭和21年にできて数年で消えてしまったのですが、あの頃はだんだん映画館ができてきて、みなさん生の演劇よりも映画の方へ移っていってしまったんですね。娯楽が豊富になってきたことや、都心部に劇場や映画館がたくさんできてきたことなんかあって、杉田劇場のお客さんはそっちに流れて行ってしまったのでしょうね。

水野 杉田劇場にひばりさんが出たというのは、杉田にいた鈴村義二さんが関わっていました。鈴村さんは浅草の興行では有名な方でした。奥さんは浅草で芸者をしていた人です。

 鈴村先生と杉田劇場の高田菊弥さんは親しくしていたのですが、その鈴村さんにひばりのお母さんが頼み込んで杉田劇場に出させてもらったんじゃないかなと思っています。

 鈴村先生は杉田八幡の手前のところに一軒家を借りて住んでいたので、私はそこで先生の奥さんに民謡を習っていました。

中村 先ほどお聞きしましたが、昔の杉田劇場にいらしたことある方、ちょっとお手をお上げいただけますか。

 無声映画をよく観ました。市川雀之助さんの「瞼の母」は頭に残っています。

水野 西村小楽天なんていう当時有名な弁士も来たんですよ。

 昭和35年から金沢区に住んでいます。公表されている杉田劇場の成り立ちは、私が母から聞いている杉田劇場とは、若干違うように思うのでお話させていただきます。もしかしたら私の記憶違いかもしれませんが…。

 私は昭和17年生まれです。当時は父親も元気で、今はJRの高架下、劇場跡地の記念碑があるあの場所で、劇場ができる前に材木屋をやっていました。材木商です。

 母から聞いた話では、杉田劇場の庭になる部分で材木屋をやっていたというのです。うちはそこの地主でした。

 父親は戦死したので、戦後は父親の実家(日野)に住んでいました。日野から山を越えて杉田劇場まで地代をもらいに行っていました。その時のやり取りの記憶はないのですが、母の話では地代をもらえなかったようです。

 そして、これは記憶にあるのですが、再び山の中をエッチラオッチラと登って日野まで帰った、そういうのを覚えています。

 杉田劇場に関していえば、劇場の中に入って舞台を見たとき、舞台装置があって心が弾んだことを覚えています。

 そのあと杉田劇場が閉館するまでの地代はどうなったのかは分かりません。杉田劇場を始めた高田菊弥さんは日本飛行機の下請けで材木屋をやっていたそうですが、私の父もそれ以前に同じ場所で材木屋をやっていたのです。杉田劇場はその木材を使って造られたわけです。

C 17歳の時に一度だけ入ったことがあります。断片的な記憶しかありませんが、入場料を払ったかどうか覚えていません。入口から入ると丸太の敷居がありました。それから、先ほどのお話にも出てきたトイレ、あれはまさにそのとおりでした。臭かった……。

 浜中の学芸会を観るために杉田劇場に入ったことがあります。波の音と、トイレのくさい臭いを覚えています。

 あのころの杉田は市電が走っていて、海も近くてよかったですね。アサリも採りに行きました。

 杉田劇場にはあまり行ったことはなかったですが、アテネ劇場にはよく行きました。

 杉田劇場に出た美空ひばりは記憶にないのですが、浜のアテネ劇場に出ていたのを観に行ったことがあります。

 そこの壁に昔の杉田劇場の広告が貼ってありますが、その中に黒川弥太郎が出ていますね。この人は中原の出身で、美空ひばりとも映画で共演していたのを覚えています。

 葡萄座が「ボルガ収容所」というのを公演していますが、その中で「異国の丘」が歌われました。

 杉田という町を一言でいうと、古くて新しい町です。静から動へと転換する町だと思います。昭和から平成へと移り、そして間もなく新しい元号になりますが、こうして杉田の文化や歴史が残されているというのは、たいへん素晴らしいことです。

旧杉田劇場がオープンしたのは昭和21年、そして新しい杉田劇場が平成17年にその名を引き継いで開館しました。これは名誉なことです。杉田の人たちが歴史を伝えてきたと思います。

 今、新杉田ケアプラザで毎月一回、杉田の歴史講座の講師を務めています。今まで仲人を何回もやってきましたが、私はひばりの大ファンでして、「ひばりのことを話すよ」というのが条件で引き受けてきました。杉田劇場があるころは小学生だったので、中に入ったことはありません。

 一時、ローラースケート場として使われていたことがあり、その前を通るとスケートで滑る音がよく聞こえてきたことを覚えています。

 杉田小学校の健康診断は磯子保健所(現在磯子地区センターのある場所)でやっていて、そこまで歩いて行くのですが、引率の先生がひばり御殿の前を通って行くのです。ファンだったのでしょうね。表札は加藤増吉と美空ひばりの二つが架かっていました。それを見て、「あ~、ここがひばりの家なんだ」なんて言いながら保健所まで行ったことを覚えています。

 戦後間もなくは和菓子の材料が入ってこなくて、店を貸していました。フクヤさんというお店で、おでんとか甘酒をやっていました。そこのオバサンがひばりちゃんが好きで、歌ってもらっていました。身体は小さいのに、すごく歌がうまかったです。歌い終わると、「おばちゃん、ありがと」といって可愛い声であいさつをしていました。

 おばちゃんは「この子はきっと成長するね」と言っていました。

水野 私はこんにゃく店をやっていたのですが、コンニャク新聞という業界紙があって、その昭和33年の記事を持ってきました。そこにはこんなことが書いてあります。「桜木町から大船を結ぶ桜大線がつくられると、根岸湾は埋め立てられる運命にある。今はその海を眼下に眺めることができる屏風ヶ浦の丘の上に、4,000万円のひばり御殿がある。」

 間坂の上にひばり御殿があったんですね。彼女が小林旭と結婚するとき、あそこから花嫁姿で出て行ったんです。そこは今、マンションになっています。

 私は現在、81歳です。26歳のときから杉田に住んでいますが、その前は港北区の中山、現在は緑区のエリアですが、そちらに住んでいました。農家の刈り入れが終わると、10月に秋祭りをやります。神社には舞台があり剣劇の浅香光代さんなんかが出て、色々なことをやるのですが、私はそういうのを見に行ったことがあります。そのとき母親と一緒に来ていた私と同学年の加藤和枝が歌っていたのです。

 旧杉田劇場ができたときは、3か月くらい国道に行列ができていたそうです。私は成人してから京浜急行に勤めていたのですが、あのときは会社として増収になったという話が伝わっています。

中村 どうもありがとうございました。今日は貴重な資料をお持ちいただいたり、あるいは再発見、新発見となるお話などをお聞かせいただきました。本日の様子は録画しておりますので、文字に起こして何らかの形で記録として残していきたいと思います。まだまだ話したりないという方もいらっしゃるかと思いますが、このあとは5階ホールでライブコンサートがあり、そちらに行かれる方も大勢いらっしゃるので、ここで本日の座談会はお開きとさせていただきます。【了】



■当日、登壇予定だった「菓子一」の相原さんは体調不良で欠席となりましたが、事前にこのような手記を送ってくれました。

 

 

旧杉田劇場での、ひばりちゃんの思い出

          和菓子「菓子一」相原一郎

 

 旧杉田劇場は終戦の翌年正月、昭和211月元旦にオープンしました。杉田在住の高田菊弥氏によって、国道16号下り線にあった深野マルヤ旅館の横に杉田劇場が建てられたが、もと日本飛行機 () の下請会社のオーナーであった高田氏が工場を改装し建てられました。

定員は320名程で、ロビーには売店などがあり、観客席から裏口の木戸を開けると、5 6 m先には波が打寄せる海があり、周囲には草が生え所々に松の木があり、大人の人は海を見ながらタバコをふかし、子ども達は草の生えている所で縄跳び等をしていました。

舞台の幕を新調するお金もなく、私の一年先輩で近所に住んでいた絵の先生 (浜中・鎌倉女子大で教授をしていた)間辺典夫先生が無料で、この幕に杉田の名所であった杉田梅林と、波打ち寄せる屏風ヶ浦の絵を画き、下段に協力してくれた商店街のお店名や個人名を入れて立派に完成いた しました。

この年の4月頃、地元滝頭に住む小さな女の子が、当時戦後の歌謡曲第一号の並木路子の「リンゴの唄」や、笠置シズ子のロック調「東京ブギウギ」を唄って、子どもにしては凄いねと結構評判になりました。この「チビッ子」の歌手こそ誰あろう、後に歌謡曲のトップスターの名をほしいままにした、「美空ひばり」の幼き日の姿でした。

 

当時の芸名は美空楽団(叔父さんと、もう一人は男子のギタリスト)と云い、歌手のチビッ子は美空一枝と云う名前でした(本名は加藤和枝)。父親は加藤増吉と云い、滝頭の市場で「魚増」と云う店名で出店していて、後に杉田公設市場へも「魚増」と云う名を出していました。

高田さんの話によるとギャラは不要で、幕の合間に2~3曲歌わせてくれないかと、お母さんから頼まれたのが最初で、母は加藤喜美枝といい、今で云う「ステージママ」 の走りかと思います。

私の妹は、この和枝ちゃんと年も余り違わず、幕の合間でのお仕事を終わると、前の国道1 6 号(電車道)で石蹴りや縄跳びで遊んでいました。目のくるりとした和枝ちゃんは、 同年配の子供たちと、誰とでも、仲よく遊んでいました。

当時は車も少なく市電の軌道もあって、チンチン電車が走って6番系統の札を電車の前に下げて、六角橋~杉田間を走っていました。

自動車も進駐軍のトラックや小型のジープが主で、日本の車は自転車やリヤカーが主でした。私の家はまだ材料が入手できず、お店を「福屋」と云う喫茶店に貸していて、店の戸袋に杉田劇場の広告を貼らせてやり、興行が変わるたびに、招待券を頂き、妹は何時も利用させてもらいました。

福屋の女主人が「和枝」ちゃんの大ファンだったのですが、商売をやっているのでなかなか見に行けないので、彼女をお店へ招待して、お汁粉・甘酒・おでん等をご馳走して、その代りに和枝ちゃんは「リンゴの唄」や「東京ブギウギ」等を歌い、勿論、ギターの方も一緒に来て伴奏しておりました。店にはマイク等はありませんので、地声で歌っていました。

当時健在であった私たちの母も一緒に聞いていて、子供でよくあの難しい歌が唄えると感心していました。私たちが聞いても高音から低音まで、よく使えるな~と感心しました。後にひばりちゃんが、「七つの声」の持主だと褒めていた専門家の方もいました。

 

昭和22年頃からは「和枝」ちゃんの出演がなくなり、野毛の「国際劇場」で、当時人気コメディアン「川田晴久とあきれたボーイズ」と一緒に、あの和枝ちゃんが「美空ひばり」の芸名で、チビッ子歌姫として出演していてビックリ。続いて当時の映画「悲しき口笛」にも銀幕のチビッコスターとして登場し、シルクハットにステッキを持っての演技力で、唄も子供とは思えない演技に、一躍天下に「美空ひばり」の芸名が知れ渡り、芝居に映画にラジオにと、引張りダコの売れっ子となった事は、皆様方がよくご存知の事と思います。



第45回いそご文化資源発掘隊 「美空ひばりが立った磯子の劇場」座談会の記録

(2019年6月24日開催)

▲会場のリハーサル室は満席♪ キャンセル待ちの方々が出たほどでした。

▲アテネ劇場のお話をする松永さん

▲アテネ劇場オープンの予告(昭和21年8月22日)

▲磯子区役所発行『浜・海・道Ⅱ』より

▲昭和26年1月15日の新聞広告。同じ映画がアテネ劇場と六角橋会館で上映されていた。

▲「愛よ星と共に」の広告(昭和23年4月27日)

▲昭和40年頃のアテネ劇場。経営者は長谷さん。

▲昭和42年の明細地図では「アテネ劇場」が「磯子劇場」になっている。

▲昭和46年の明細地図。磯子劇場の表示が消えて空家に。

▲お話をする鶴田さん

▲美空ひばりの店「美之寿し」は中区若葉町にあった。

▲美空ひばりの記念碑(磯子区役所前)

▲「美之寿し」の外観(鶴田理一郎さんの著書より)

▲ひばり御殿(昭和36年の明細地図)。鮮魚、加藤増吉、美空ひばり宅と書かれている。緑色に塗った部分は浜小学校。現在、ここに磯子区役所が建っている。

▲左側が曽根さん

▲ひばり御殿の上棟式。昭和28年4月14日撮影

▲「美之寿し」上棟式の行列。伊勢佐木町にて(昭和32年2月23日)

▲上棟式後のお祝い(昭和32年5月25日)

▲横浜マンドリンクラブの演奏

▲歌まね「よしちゃん」の演奏

▲「魚増」時代の思い出を語る関戸さん

▲杉田公設市場にあった「魚増」

▲10代の頃の美空ひばり(村田進さん提供)

▲10代の頃の美空ひばり(村田進さん提供)

▲美空一枝(のちの美空ひばり)が初舞台を踏んだん杉田劇場

▲旧杉田劇場の緞帳

▲旧杉田劇場の内部(昭和25年1月19日)

▲アテネ劇場改装のための休館案内(昭和26年7月17日)

▲緞帳の前で歌っていた加藤和枝を舞台で歌わせた鈴村義二。

▲左の〇印あたりに、美空ひばりの2番目の家があった。そこから3ブロック右に行くと映画館が2件あった。映画座と根岸シネマ。

(昭和34年の明細地図)

▲根岸シネマの外観(磯子区役所発行『浜・海・道Ⅱ』より)

▲聖天橋の際にあった「杉田東映」。現在はパチンコ屋さんになっている。(昭和34年の明細地図)

▲京急杉田駅近くにあった「東洋劇場」。この一帯は再開発されて現在は「ぷらら」が建っている。(昭和34年明細地図)

▲浜中学校では杉田劇場を借りて学芸会をやっていた。

▲昭和23年6月1日の杉田劇場の広告。りべらるショウというのはストリップショーの前身。

▲昭和23年6月8日の杉田劇場の広告。9日までヴィナスショウをやっていた。10日から「仮名手本忠臣蔵」を興行するというこの対比がすごい。

中村 大変お待たせいたしました。本日はたくさんの参加者にお越しいただき感謝を申し上げます。前回は224日に「旧杉田劇場の思ひ出」と題して開催いたしました。そこでは美空ひばりさんの話もたくさんいただきました。そして今日はひばりさんの30回目の命日ということで、第45回いそご文化資源発掘隊は、「美空ひばりが立った磯子の劇場」ということで、ゆかりのある方々をお招きして開催することになりました。

 まずは皆さんから見て右側にお座りいただいている松永春さんからお願いいたします。松永さんは赤い靴記念文化事業団団長をされておられ、横浜の文化のためにいろいろ活動をされていらっしゃいます。(平成28年度横浜文化賞受賞)

松永 私はいろいろなことをやってきて、90歳になりました(拍手)。私の父親は映画が大好きな人で、私は小学生の頃から、よく映画館に連れて行ってもらっていました。

その後、旧制中学に入ると、学校の規則で映画を観に行ってはダメだということになりました。しかし、学校の規則がそうであっても、やっぱり私はどうしても映画を観たいわけです。学校から帰ると服を着替えて、映画を観に行っていました。

伊勢佐木町の映画館で「幽霊大いに怒る」という映画を観ていた時のことです。河村黎吉という役者が飲もうとすると電気が消え、やめると電気がつく、そんなシーンを観ながら笑っていたら、背中をポンポンと叩かれました。その人は学校の先生で、手帳を出して名前を書けというんですね。4人で行ってたのですが、翌日、4人とも先生に呼ばれて、初代校長の銅像の前に4時間も立たされました。

「なんで4時間なのか」と聞くと、先生は「4人だから」なんて言うのです。どういう計算なんでしょうかね(笑)。でも、仕方ないから我慢しましたけど、トイレは我慢できません。順番でトイレに行って、やがて私の番が来て行っていた時に先生が来て、「なんで3人なんだ」というわけです。そのうちの一人が「トイレに行っています」と答えたら、「それなら、あいつだけもう1時間!」となって、私だけさらに立たされてしまいました(笑)。

この場所は全校生が通る場所で目立つんですよね。「何やったの?」と優しく聞いてくれる人もいましたし、「馬鹿な奴だ」というのもいました。

 ま、それだけ映画が好きだったんですよね。だから、なんとかして映画の世界に入りたいと思っていました。そんなとき、アテネ劇場で映写の仕事を募集していたんですね。

当時の私は南区の高砂町に住んでいましたので、市電1本で行けるわけです。これなら通えるということで、昼間は父の仕事を手伝い、夕方からアテネ劇場の仕事に行くことにしました。

 初めて行ったときに怖かったのは、女性の社員で小指の先がない人がいたんです。ちょっとドキッとしましたが、優しかったのでここに入ろうと決めました。

 当時の映写というのは、アーク灯を接触させて光源をとっていました。これは火花が出るのでフィルムが焼けたり、劇場が火事になったりすることもあったので、消防署の検査がありました。

 映画が1本終わると、フィルムを手で巻き戻さなければなりませんでした。当時は映画館を2館も3館も掛け持ちだから大変でした。アテネ劇場は六角橋会館とかけもちをやっていたので、巻き戻した映画フィルムを、アテネ劇場のお爺さんがそれをリュックサックに入れて六角橋まで行き、そこで向こうのフィルムを受け取って戻ってくるのです。2館で1本のフィルムを使い回していたから、単価が安くできたのです。

そういうフィルムというのは、ほとんど雨が降っているのです。雨というのは、スジです。それでも当時は娯楽がありませんから、みんな楽しそうに観ていました。

 それから、うっかりするとフィルムが燃えていたりするんですよね。そんな時はすぐに消して、フィルムの燃えた部分をカットして、接着剤でつなげるんです。これに5分ぐらいかかるのですが、それでもお客さんはジーッと待っているんですね。ベテランの人ならすぐ戻れるのですが、私なんか見習いですから時間がかかる。接着しても、回したら切れていたりして……。そうすると客席から「何やってんだ! このやろー」と声がかかるわけです。それに対して劇場の親父さんも怖い人で、「おいっ! ちょっと待てよ!」と。客席の方はシーンと静かになっちゃうんです。そこはやっぱり、小指の無い人がいましたから……。(笑)

しばらくして、私が一人でこなせるようになってきたら、技師長という人が夜になるといなくなっちゃうんですよ。あとは一人でやれって。

巻き掛けの場合は、巻末近くになったらもう一方の映写機の確認を行い準備をします。でも、技師長は早く帰りたいもんだから、途中で切っちゃってつなげちゃうんです。そうするとストーリーなんか分かんなくなっちゃうんですけど、お客さんは満足して帰っていくんですね(笑)。そういう時代でした。

私もそういうものなのかなと思いましたが、会社みたいに課長だ、部長だとかいるわけではなく、親方と弟子の関係なんですね。

で、その技師長ってのはどこへ行っているのかというと、近くの博打場に行ってるんですね。そして終わっても帰ってこない。だから私が最後の片づけをやって、鍵をかけてから帰るんです。でも、鍵を持って帰るから、翌朝は早く来て鍵を開けなければなりません。そしていったん帰ってから、また夕方来る、こういうことをやっていました。

それでも、楽しいことは、楽しかったですね。たとえば三船敏郎の映画なんか、何回も、何回も観ることができました。それから「愛よ星と共に」は高峰秀子が出ていましたが、お客さんがズラ~ッと並ぶんです。それで1週間が2週間になり、3週間にもなったりするんです。それでもお客さんは、いるのです。それだけ、映画というのは当時の大きな娯楽の一つだったんですね。

さて、映画館というと看板があります。あれは看板屋さんが書くのだと思っていたらそうじゃないんですね。輪郭が書いてあって、いろいろ指定があって、泥絵の具で書くんですね。そして技師長が「おまえ、書け」っていうんです。まあ、それで書いたのですが、顔はなかなか難しい。それでもかえって目立ったりしてうまくいきましたけど。「安城家の舞踏会」、これはちょっと面倒だったのですが、自分の力作でした。

そんなこんなで、独りでいろいろやらされていたので、次は大船撮影所に行きました。やっぱり向こうは立派ですよね。

当時の映画作りというのは今のビデオ時代と違って、少しだけ撮影したらそれを機械にかけて、ダメだったらそれを捨ててしまうという、大変な作業をやっていました。そんな撮影所で撮影がないときは、親方から「おまえ、明日来なくていい」なんて言われるのですが、来なくていいということは、明日の給料がないということです。その親方がチンドン屋が上手くて、古川ロッパのときは、私はそこで旗持ちをやっていました。とくに一本指で支えるのが得意でした。

そんな頃、外国人のスポンサーがついて、アメリカに留学することになりました。そのロサンゼルスで力道山にバッタリ会ったんです。「おまえ、何しに来たの?」ときかれたので、「学校に勉強しに行くんです」と答えたら、「おまえ、学校なんかやめろよ、アメリカの学校を出て日本に帰ったって、なんにもできないんだぞ」と言うんです。

そして、全米を1年間、無料で乗降できるパスをくれたんです。それで感動しちゃって、49日間アメリカを回ってきました。でも、四十九日じゃ縁起が悪いと思って(笑)、もう数日移動しようかと考えたのですが、そこで旅は止めて学校に行きました。

そしたら、そこで「おまえ、日本で何をやっていたの?」ときかれたので、「映写技師をやっていた」と答えたら、一人の先生が「ここで法律の勉強なんかするより、ハリウッドに行った方がいい」と言って、ビング・クロスビー・プロダクションを紹介されました。

そこには大きな劇場があって、そこでアメリカの機械をいじらせていただいたのです。すごくいい機械でした。日本のものとは全然違っていて、ほとんど手間がかからず、危ない時だけパチッとやればいい、そんな機械でした。これを日本に売り込んで少し儲けさせてもらいました。

日本に帰ってから、美空楽団でトランペットを吹いていた友人にくっついて、いろいろ見せてもらったことがあります。ひばりさんと話をしたことはないのですが、何度も見ています。

私はいろいろな方と出会いがあって、新幹線の中で高木東六さんと一緒の席になったことがあるのです。そしたら東六さんが「今度うちに遊びに来いよ」というので、真に受けて遊びに行ったんです。

そこで、「長崎にザ・シワクチャーズいう高齢の女性合唱団があるのだけど、横浜でも作ってみないか」と言われました。それで横浜でも立ち上げたのですが、高木東六というだけで600人も来たんです。世界最大の合唱団ですね。現在は60人になりましたが、80代、90代の高齢者が頑張っています。

 その高木東六さんは、美空ひばりに「あまんじゃくの歌」を作って歌わせました。クラシックの彼が美空ひばりの家に伺って直接指導し、昭和29年にこの歌を発表したのです。演歌や歌謡曲に対して批判的だった高木東六さんが、美空ひばりは天才だと言っていました。

最後に、その「あまんじゃくの歌」をちょっとだけ聴いていただきます。

中村 どうもありがとうございました。次は美空ひばりさんとたくさんの接点があった鶴田理一郎さんにお願いします。

鶴田 私の切り口は「美之寿し」ということですので、その辺のお話をしようと思います。私は来月82歳になります。美空ひばりさんと同じ歳なんです。いま振り返ると、ひばりさんも私に対しては話しやすかったんだと思います。

 私の名前は鶴田なんですけど、ひばりさんのお母さんが鶴田浩二の大ファンだったので、ひばりさんは私のことを「こうちゃん、こうちゃん」と言って、私の「追っかけ」になっていました。信じられないでしょうけど……。本当なんです。

 戦後、日本の男性は指が太かった。指がきれいな人はあまりいなかったんです。私は顔はそこそこなんですけど(笑)、そこそこというのはあまりモテないだろうから丁度いいということなのですが(笑)、ひばりさんは私の手がきれいなので、貴方に寿司を握ってもらいたい、料理を作ってもらいたいと言うんです。

「こうちゃん、私は女王になったの。料理番がほしいのよ。料理番がいるのは天皇陛下だけでしょ。私の料理番になってちょうだい♪」と言うわけです。それで私を追っかけまわしていたんですね。

 余所ではあまり話していないのですが、今日は中村館長たってのことですので、これを持ってきました。「美之寿し」の湯のみです。ひばりさんのところでは電話が3本くらいありまして、2本がお店のもので、それが湯呑に書いてあります。

京都の「ひばり館」ではこれに500万円の値を付けました。売りませんでしたけどね。私が「美之寿し」にいた頃は、寿司一人前が120円でした。これを食べると、お客さんには湯呑がプレゼントされていたのです。

ひばりさんのお店は、2階がトンカツ屋さんで、1階が寿司店でした。当時は就職するとなると、フトンを持っていないとダメだったんです。住み込みですからね。今では考えられないでしょ。フトンが有るか無いかで就職が決まったのです。

 真金町の赤線が廃止になったので、ひばりさんのお母さんが、そこで4,500円の部屋を借りてくれて、フトンもくれました。そういったことの恩返しとして、磯子区役所の前に美空ひばりさんの記念碑を建立することができました。今日お集まりの皆さんの中にもご協力いただいたと思いますが、500人の気持ちが集まって立てたのです。先ほど、館長ともお話させていただいたのですが、美空ひばりさんのことでこんなにお客さんが集まるのだから、今度は300名入るホールでやりなさいよと申し上げました。

 「美之寿し」の話に戻りますが、お店には小指の無い職人さんもいました。私はまだ指ありますけどね……(笑)。その寿司店に就職したのは昭和32年でした。ひばりさんのお母さんの実家は、南千住の諏訪さんという家で、石炭屋さんだったんです。私は千葉の生まれで東京に出てきたとき、石炭を売っていました。常磐炭鉱から石炭を積んだ貨車が来て、それにブレーキをかけると石炭がサーッとこぼれるんですよ、それを諏訪さんのところに売っていたのです。

 そんな関係で「美之寿し」の親方のところへ行き面接を受けました。そして店に来いと言われて、「美之寿し」に行くことになりました。当時は三日一仕事といいまして、1か月勤める人は少なかったです。みんな前借してまして、やはり実家が困っていたんでしょうね。

 私は昭和38年まで「美之寿し」にいたんですけど、その後、寿司屋は「おしどり」というクラブになりました。ひばりさんが大船の撮影所から帰ってくると、闇太郎のスタイルでパーッと出てくるんですよ【『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』(1957)】。みんな、ひばりが帰ってきた~って、喜んでいましたね。

ひばり御殿では、お客様を呼んで接待するときは、なぜかヤキトリなんですよ。なぜか、ひばりさん一家は、接待というとヤキトリなんです。そんなとき、寿司屋の親方は「冗談じゃないよ、俺は板前だ。ヤキトリなんか焼けるか」と言ってましたので、ファンだった私が「じゃあ、僕が行きます」と言って御殿に行きました。

ひばりさんは、私のことを「可愛い」と言っていましたが、「可愛いと愛するとは違うのよ」とも。「愛とは違うよ」って耳もとで囁かれました。

私がいつも元町の屋台に行きたいって言うと、ひばりさんは分かっちゃうから駄目よと言っていました。それでも行くときは、「じゃあ、私のことをゲラ子って呼ぶんだよ」って。ゲラゲラ笑うから、ひばりさんは自分のことをゲラ子と言っていたんです。ゲラ子って言ってれば、みんな美空ひばりとは分かりませんからね。

だから屋台では「おい、ゲラ子、帰るぞ」なんて、そういう会話を交わしたことが、来月82歳になる私としては夢のような気がしています。

中村 ありがとうございました。ひばりさんのことをゲラ子って呼んでいたんですねぇ。

 では続いて、お宝写真を持て来てくれた曽根武夫さんです。「ひばり御殿」と「美之寿し」の写真が配付資料に掲載されています。

どういう経緯で、こんなお宝写真を入手したのか、その辺のお話を聞かせていただきます。

 曽根さんは木の専門家で、樹木医に樹木のことを教えています。曽根 栗木からやってきた曽根と言います。木が好きで農林高校を出たあと、材木屋で奉公して、大工さんともお付き合いをするようになりました。その後、独立して材木屋になりました。
 前回、
2月のときは「旧杉田劇場」の話が中心で、そのとき美空ひばりの話が出て、次回はひばりさんのことをやるんだよ、ということでしたが、私はひばりさんとは全然関係がないんですよね。

先ほどの二人の先輩方と違って、私は接点がないのですが、友達の大工の佐藤明彦が「俺の親父がひばり御殿をやったんだよ」と言うところから、今回の話は始まりました。
 それじゃあ、ってことで佐藤君の家に行ったのですが、留守だったんですよね。

56年前ですかね、佐藤君はちょっと身体をこわして「俺、もう大工はやめたよ」なんてことを言っていたので、この時は「ふ~ん」と思ってうちの電話番号を書いてメモを置いて来たんですね。

 そしたら、10日くらいだったか、2週間くらい経ったころ、電話があって「〇×*フニャ」なんて言うんです。喉頭ガンと舌ガンをやったもんだから声が出ないというんですよ。「佐藤か!?」と言うと「ふにゃ」と言うんですね。それで急いで佐藤の家に飛んでいきました。

 そこで声が出ないから筆談で話をしました。病院に入院しているんだけど、今日一日だけ帰してもらったんだって言うんです。「じゃあ、明日帰るのか?」と聞くと、「そうだ」と言うんです(筆談)。

 「お前のとこの親父がひばり御殿を建てたっていっていたけど、何か残っていないの」と筆談で聴くと、「ちょっと待ってね」と言って、こんな写真が出てきたんです。

 これは、ひばり御殿の上棟式の写真です。昭和28414日だから、16歳のときでした。写真の裏には「加藤和枝邸新築上棟式」と書いてあります。とび職がたくさんいますが、半纏に梶ヶ谷と書かれていますね。磯子の梶ヶ谷さんが中心になって建て回したんです。梶ヶ谷さんはどうなったのかと思ったら、とび職をやめて、もういないんですね。

 こちらは若葉町に建てた「美之寿し」の建前のとき、伊勢佐木町を練り歩いている写真です。三寸五分角で長さ4メートルの弊串(へいごし)を3本も担いでいます。裏には昭和32年2月24日と書かれています。

 建物が完成すると、施主は棟梁のところへご祝儀を持って行くんです。当時はこの弊串1本でだいたい50万円くらいでした。普通はこれ1本です。しかし、ひばりさんはすごいですよね、3本も担いでいますから、150万から200万円くらいのご祝儀だったんではないでしょうか。

 そして、これは「美之寿し」の完成祝いのときの写真です。裏に昭和32525日と書いてありますから、19歳だったんですね。

 ということで、この3枚の写真を佐藤君のところからいただいて来たのです。

 その佐藤君の親戚が、「魚増」の隣で肉屋をやっていたというんですが、ありました?

 (あった、あった、と会場からの声)

 その肉屋さんで話を聞こうと思ったら、お父さんが亡くなったというんで、話は聞けなかったんですけど。そして、そのあといろいろなつながりから、関戸さんとも知り合いになりました。

 本当に一瞬のことですよね。私があのとき佐藤君の家に行かなければ、この写真は手に入っていませんでした。縁ですよね。

中村 地域のつながりってすごいですよね。実は曽根さんとは別のプロジェクトでご一緒しているのですが、そこで美空ひばりさんの話が出て、さらに仕事関係の方を通じて、棟梁が持っていた写真にもつながってきました。そして今日、その写真を皆さんにも見ていただくことができました。

 それではここで休憩に致しますが、その時間を利用して横浜マンドリンクラブの演奏を聴いていただきたいと思います。お飲物もご用意していますので、そちらもどうぞ。

≪横浜マンドリンクラブの演奏≫

・真っ赤な太陽・悲しき口笛・哀愁波止場・お祭りマンボ・港町十三番地・川の流れのように

≪歌まねよしちゃんの演奏≫

・美空ひばりの歌マネで川の流れのように

 

 中村 どうもありがとうございました。関戸さんとはお知り合いなんですか。

よしちゃん 私が曽根さんと知り合いで、曽根さんから「今度、美空ひばりのことをやるよ」という話があったときに、「それならピッタリの人がいるよ」ということで関戸さんを紹介しました。

(関戸さんの事務所で打ち合わせをしている時に、よしちゃんが歌まねをやっていて、美空ひばりも得意だということで、今回、1曲歌っていただく時間を設けた)

関戸 先ほど、ひばりさんの親せきと仰っていただきましたが、ひばりさんのお父さんの弟と、私の姉が結婚したんです。

私が初めてひばりさんと会ったのは、厚木にある私の実家でした。彼女が「悲しき口笛」を出す前だったのか、そのあとだったのか記憶が確かではないのですが、実家の物置に泊まってもらいました。

翌日、ひばりのお父さんと美空楽団の人たちが車でやって来たので、急遽、舞台をつくりそこで歌ってくれたんです。だから今でも同級生たちの間で語り草になっています。「私たち信じられないものを見たんだね」って。

鶴田さんが「美之寿し」でやっていたように、当時は私も小僧として「魚増」を手伝っていたんです。実は、「魚増」の支店が杉田にできたのですが、ご存じですか。京急杉田駅の近くです。調べてもらったら、たしかに地図に載っています。そこがオープンしたとき、私もそこを手伝いに行きました。姉さんたちが丸山町の方からそちらへ行ったんです。オープンした時は、杉田駅から市場に続く道は全く歩けませんでした。ひばりさんが来るって言うんで、道路は人でぎっしりだったんですね。そのため店をオープンすることができませんでした。丸山町の市場の頃は、若い衆が5人くらいいました。そして仕事が終わると、みんな番犬代わりにひばり御殿に泊まりに行くんです。

 ある日、ひばりのお母さんから、私の姉の旦那のところに電話がありました。「ヨシオ(関戸さんの名前)はなんでうちに泊まらないんだ」と。私はプライドがあったから、ひばり御殿には泊まらず、自宅に帰っていたんですね。牛乳持ってこいとか言われてね。それ以来、私はひばりのお母さんが嫌いになっちゃったんです(笑)。ひばり御殿には毎日、ミカン箱いっぱいのファンレターが届きました。その手紙の中には返信用として10円とか切手が入っていたのですが、それを全部がめちゃったりしていました(笑)。

そんなこんなで「魚増」を手伝っていたのですが、私は生意気だったので魚屋をやめてしまいました。「魚臭くなるから、女の子にもてなくなるから」ってね(笑)。

 5年くらい前でしたか、加藤和也さんが杉田劇場に来たとき、楽屋で一緒になりました。そのとき、彼にそんな話とか、ひばりさんが地方巡業するときは、残された弟たち、あんたのお父さんね、寂しい想いをしないよう、うちの実家に泊まらせていたんだよ、とかいう話をしたら、すごく喜んでくれました。

 親戚っていったって、たいしたことないんですけどね、こんな感じでした。

中村 どうもありがとうございます。では、会場の方々から、質問や感想などをお聞かせいただきたいと思います。

金子 私は松永先生も、鶴田さんもよく存じ上げているのですが、美空ひばりさんの嬉しそうな、あるいは楽しそうなエピソードがあればお聞かせ願いたいと思います。何か語りかけてくれたことなんかをお聞きしたいです。

鶴田 「可愛い」って言ってくれたことかな(笑)。私が日記に書いていた「ひばりさんの言葉」をご紹介したいと思います。

 「人を想うということは、日々重いんだよ」。大切なことだと言っていました。他に……

 「語るもよし、語らぬもよし、その人の良さ」。

 「今日涙しても、明日笑おうよ」。

 「味は人なり、人に味あり」。

 「空のうえには、いつも太陽があるからね」。

 あの人は私の先生でしたね。今日は彼女の30回目の命日ですが、この会場をひばりさんの霊が漂っているんじゃないでしょうか。ひょうきんな人でしたからね、「ありがとう」って言っていると思いますよ。このような会を開いてくれて、感謝していると思います。

松永 大船撮影所によく、ひばりさんが来まして、自分の出番を待っている間はセリフのことかなんかで顔色がさえませんでした。でも、撮影が終わって外に出ると、大坂志郎という役者のところへ行って、見たこともないような嬉しそうな顔で話していたのを見ました。

 もう一つは、美空ひばりさんの話とは違いますが、私の友人に美空楽団でトランペットを吹いていた人がいます。当時、この楽団にトランペットで入りたいという人がいて、彼は追い出されてしまったんですね。その人はいろいろな噂を流して彼を追い出したのですが、美空楽団でやっていたという経歴があると、次の楽団に移る時に給料が上がるとか、いいポジションにつけるとか、そういうことが背景にあったと、悔しそうに話していました。いろいろ大変だったみたいですね。

中村 ありがとうございました。美空ひばりさんと同い年、あるいはそれ以上という方にお聞きしたいですね。

岩村 私は鶴田さんと同い年です。昨年、こちらで開催された、鶴田さん主催の美空ひばり生誕前夜祭に参加させていただきました。ひばりさんが亡くなって30年もの間、彼女を支え続けてきた立派な方だと思います。お世話になりました。

私もひばりさんと同い年で、小学生の頃は「越後獅子」を歌いながら拭き掃除をしていました。最近は、歳を取って来たのですが、鍛えれば声が出るのではないかと、美空ひばりの歌を練習しています。今はYou Tubeという便利なものがありますので、嵐寛寿郎と一緒に出演した「鞍馬天狗 角兵衛獅子」なんかも見ることができるので、いい時代です。

春田 私はひばりちゃんよりも歳が上です。生まれは曙町で、横浜生まれの横浜育ちです。ひばりさんとは縁があって、私が嫁に来たのが磯子でした。そして所帯をもったのが、ひばり御殿のすぐ近くでした。

 私が嫁に来た家のお墓が日野公園墓地で、それもひばりちゃんのすぐそばなんです。私は亭主の月命日には必ずお参りに行っているのですが、あそこには全国からファンがやってくるんですね。美空ひばりのお墓は管理事務所では教えないので、それで、美空ひばりのお墓はどこですかと、しょっちゅう聞かれます。

 彼女のお墓はいつもお花がいっぱいです。亭主の月命日は29日なんですが、暮れになって早めに、クリスマスのときに行くと、ケーキを持ってきて騒いでいる人も見かけます。

 一方、私の母とか、根岸の叔母なんかは、ひばりちゃんのことを、あまり良く言ってませんでした。そんなことを聞かされていたのですが、私にとっては何か縁があって親しみやすいひばりちゃんでした。

 ひとつ聞きたいことがあります。「美之寿し」はいつまであったのか、ということです。

鶴田 「美之寿し」は昭和32年に開店し、昭和38年までありました。その後はクラブ「おしどり」になっています。

 会場にいらっしゃる皆さんの中で「おしどり」に行った人、いらっしゃいますか。(会場 シ~ン)ちょっと行けなかったですよね。給料が12千円のときに、あそこは入っただけで5万円なんですよ。(会場 ヘエ~!)なぜ、寿司屋をやめたかというと、単価の小さいやつを一日やっていても同じだということでした。これはお母さんの発想だったのか、ひばりさんの発想だったのか分かりませんが、まあ、いろんな方のご意見だったと思います。惜しまれつつ「美之寿し」は閉店し、やがて「おしどり」も消えていきます。「おしどり」行くんだったら、銀座に行った方がいいやという時代の流れですかね。

 会場に、元磯子区長さんがいらしてますね。その節はお世話になりました。

元区長 区制80周年の年でした。「美空ひばりさんを愛する横浜市民の会」として、ぜひ記念碑を建てたいということで、鶴田さんが区役所にいらっしゃいました。

 本来ならば、記念碑は彼女が生まれた滝頭にということなのですが、先ほども会場からお話に出ていたように、地元の方ではあまりいいよと言う感じではありませんでした。それでは磯子駅にということで、現在、他の記念碑が建っていますが、JRの敷地内でお願いしました。しかし、今は敷地内にそういうものを建てることはどこも認めていないということで、じゃあ次は区役所でどこかにということになりました。

 区役所前の歩道に藤棚がありますね。その横が当時は植え込みだったのですが、そこを少し削って建てることになりました。ちょうど区制80周年ということでしたので、鶴田さん、「愛する会」の皆さんに作っていただきました。今でも会のメンバーが毎月来られて、記念碑の周辺を掃除していただいています。これはもう、磯子と美空ひばりさんの繋がりの強さだなと思っております。

鶴田 その節はお世話になりました。

水野 私は224日の「旧杉田劇場の思い出」に出演させていただきました。10年前まで杉田でコンニャク屋をやっておりました。丸山市場の「魚増」さんの前に八百屋さんがあり、そこにコンニャクを納品しに行っていたので、お父さんの増吉さんとは1週間に一度、あいさつをしていました。その八百屋さんは甥っ子さんが継いでいたのですが…

関戸 そうそう、去年亡くなったよ。

水野 そうなんですよね。そして甥っ子さんの奥さんが続けています。「魚増」さんの方は今でも美空ひばりの写真をたくさん飾っていますが、市場がさびれちゃって、なんだか寂しいです。杉田公設市場に出店した時のことは、よく覚えています。

関戸 私はあそこで45か月手伝っていたんですよ。

水野 それから美空ひばりさんが磯子であまり人気がなかったというのは、弟さん二人がちょっとワルだったんですよね。小野透さんは刺青をしていました。私の知人が鳩を飼っていたいたのですが、それを盗んだりとかね……

関戸 魚屋で働いていたトミオちゃんとかヒデって知ってる?

水野 知ってます、知ってます。

関戸 その二人が弟たちの付き人になってね、それで上がっちゃったわけよ。

――会場がざわついて聞き取れず――

中村 ご当地でしか聞けない、すごいディープな話ですね。これは杉田劇場の、この場でしか聞けない話ですね

女性 美空ひばりさんには妹さんがいますよね。今はどうしているんですか。

中村 勢津子さんね。

鶴田 彼女は大阪の藤井寺に住んでいます。もう歩くのは困難ですが、まだお元気です。杉田劇場でも5回ほど歌っています。ひばりさんと似た声でね、評判が良くて行く先々で完売していました。

女性 ひばりさんは塩谷崎(しおやみさき)に行ったことはあるんですか。

鶴田 行っていません。船村徹さんと星野哲郎さんと私が行きました。(塩屋崎は作詞が星野哲郎、作曲が船村徹)

女性 福島の塩谷崎には記念碑があって、ボタンを押すとひばりさんの歌が聞けるんです。それで、ひばりさんも行ったのかしらと思ったもので。

鶴田 先ほどの「川の流れのように」も「愛燦燦」もヒットしたことを、ひばりさんは知らないのです。もう亡くなっていましたから。秋元康さん作詞の「川の流れのように」ですが、彼がニューヨークに行ったとき、ハドソン川を見て作詞したのです。でも、美空ひばりさんは磯子の堀割川を想いながら歌っていたと思います。

関戸 鶴田さん、あなたが「美之寿し」で職人をやっている時、ひばりさんのお父さんが亡くなったでしょ。そのとき、仕出しの注文とかこなかった?

鶴田 私は病院に行っていましたから……

関戸 病院に行ったときは、骨に皮がのっかている状態でしたね。お通夜の晩はいろいろな人が来ました。鶴田浩二とか高倉健とかね。雲の上の人ですよ。

鶴田 今日は会場に新聞記者が来ているからまずいんですけどね、(以下省略)

曽根 ここだけの話ですよね。

鶴田 男だったらこうしてもらいたいなと、私は思っています。そしてね、弟の武ちゃんが悪いとか言われていますけど、二人とも元々は可愛いボクちゃんでしたよ。

関戸 そうだよね。

鶴田 まあ、そういう昭和の時代でしたよね。良い悪いは裁判所が決めることで、私は人を裁けません。もともと皆、いい人だと思っています。

 ひばりさんの話に戻りますが、なぜ地元で評判が悪いのかというと、小さなことなんですよ。お祭りで寄付をしない、町内会費を払わない、こういう些細なことなんです。盆踊りに出てこないのは、何か出られない理由があるんでしょ。

 私の心の中では、ひばりさんの命日は613日だと思っています。この日、順天堂の病院で昏睡状態になり、11日間、眠ったままで、24日に死亡診断書が出たんです。私は67日にひばりさんと会っているいるのですが、その時はまさか亡くなるとは思ってもいませんでした。

 私は、ひばりさんを間近で見ていた一人として、いろいろなところで話をしてほしいと言われるのですが、出ないんです、出たくないんです。でも今日は、中村館長からのたってのお願いということで参りましたが……。

 ひばりさんは、みなさんの知っている「ひばり像」でよろしいと思います。

 公演が終わった時の拍手は、今でも忘れられませんね。普通はパチパチって鳴って、ああ拍手だなと思いますけどね、ひばりさんの公演の拍手は建物が動くんです。空気が動く、そういう拍手でした。

生出 ひばりさんは滝頭の生まれ、僕は根岸の生まれで、年齢はひばりさんより4つ年上です。滝頭というところは、非常に演芸の盛んな所でした。八幡橋の八幡さまは滝頭の神社で、氏子は滝頭なんですね。その滝頭なんですが、祭りとなると道路に櫓を組んじゃうんです。ステージを2つも作って、そこで歌を歌ったり、落語や浪曲をやったりと、演芸のプロがたくさんいるんです。

 当時、滝頭の三人娘と僕が名づけていた人がいます。一人は美空ひばりさんですね。そして畳屋の娘で佐野京子さん、もう一人は水野さんといって、交通局の前にあった水野自動車の娘さんです。この水野さんがいちばんきれいだったですね。しかし、佐野京子さんは、小さいのにアコーディオンを弾きながら歌うんです。「東京ラプソディ」なんかを歌うんです。おどろくべき上手さでした。

ひばりさんは、あまり出てこなかったですね。

 先ほど松永さんがアテネ劇場のお話をしてくれましたが、ひばりさんが最初に出たアテネ劇場、その裏には木造3階建ての大きな見番がありました。

僕がひばりさんの歌をはじめて聞いたのがアテネ劇場でした。そこで美空楽団と一緒に歌ったのが「勘太郎月夜唄」です。♪影か や~な~ぎ~か~

 歌いながらしなを作るんです。いや~、うまいもんだなと思いました。

 それから杉田劇場の話になりますが、昭和25年だったかな、NHKの全国のど自慢横浜大会というのが開催されました。じつは僕もそれに出たんです。7番目で「マイ・ブルー・ヘブン」を歌いました。当時は米軍がたくさんいましたからね。♪When whippoorwiils call~【場内から手拍子】

 歌の途中でカ~ンと鐘を鳴らさず、1番だけですが歌わせてくれるんです。このとき、ひばりさんも出たというんですが、どうもその気配はなかったですね。違うときに出たんでしょうね。結局、僕は見事に落選でした(笑)。そのころ流行っていた歌は、♪白い花~が咲いてた~ って、全部白い花なんですね

 滝頭には床屋さんが多いんですよ。その床屋さんがみんな上手いのね。1等になったのは滝頭の床屋さん。でも全国大会では全然だめで、優勝したのは、♪コトコトコットン~ていいう歌あるでしょ、「森の水車」、あれを歌った人でした。

 審査員がすごかったです。滝頭に住んでいた理学博士の朝比奈貞一さん(横浜文化賞受賞者)。この人に僕の歌なんか分かるわけないじゃないですか(笑)。僕の家の近くに住んでいたのでよく知っていたのですがね。

 美空ひばりさんは昭和25年に川田晴久と一緒にアメリカに行きます。ひばりさんは川田晴久を尊敬していました。「生涯で私の師は川田晴久」と言っていました。お母さんも一緒にパンアメリカンでハワイとアメリカ本土に行きます。その時歌ったレコードがあるのです。僕はそれを持っているんですが、小さいひばりさんが、ボブホープの歌なんかを歌っているんです。♪バッテンボー~ っていう、あの歌なんか(ボタンとリボン)。昭和25年にアメリカの歌を歌っていたんです。見事なもんです。

当時、ひばりさんの家は四間道路のところにあったんです。ひばり御殿に移る前ですよ。それ以前は、屋根なし市場と言われていた小さい家ですよ。諏訪さんという人がこの前まで住んでいましたけど、今は壊しちゃっています。そのすぐ横に加藤家の家がありました。そこには妹の勢津子さんが住んでいました。

 僕は磯子の水道局でアルバイトをしていましてね、メーター交換の仕事です。そこで加藤家のメーターの交換をしたのが、美空ひばりさんとの縁ですね。

僕が新聞記者だったとき、美空ひばりさんにインタビューをしています。何を聞いたかというと、815日が近づいてきたので、「あなたの815日はどうでしたか」っていう話です。ひばりさんは非常に戦争を怖がっていました。お母さんが家の近くに防空壕を作って、それが空襲の1日前にできて、ひばりさんは命が助かったのです。戦争は怖いっていうことを、しみじみと仰っていました。

広島で「第1回平和音楽祭」というのがありました。その時、ひばりさんは素晴らしいナレーションをやります。歌は「一本のえんぴつ」というのですが、それを歌う前に広島の皆さんにこう語るんです。

「戦争は怖い。私も戦争を体験したが、戦争ほど嫌なものはない」って言うんですね。そして「一本のえんぴつ」を歌うのです。これは同じ滝頭の映画監督・松山善三さんの作詞でね、「一本の鉛筆があれば、戦争は嫌だと私は書く」という歌です。この歌は難しいですよ。美空ひばりの歌を歌う人はたくさんいますが、これを見事に歌える人はいません。

 ひばりさんという人は戦争を嫌がって、平和を願う人でした。

中村 ありがとうございました。大変貴重なエピソードをお聞かせいただきました。またお歌が上手いですね。はい、他にいらっしゃいますか。

女性 子どもの頃、ひばりちゃんと、せっちゃんと、私と3人でよく遊んでいました。

(何歳ごろですか?の声あり)

 滝頭小学校時代です。校庭で遊んでいました。ひばりちゃんは自転車に乗れなかったんです。そしたら、せっちゃんが一生懸命に教えていました。また、私とせっちゃんが公園で遊んでいると、ひばりちゃんが毛皮のコートを着て、やって来たりね。これは、いつも思い出します。

 お父さんがお魚屋さんだったでしょ。今では考えられませんけど、お父さんが大きなお魚を持ってきて、用務員さんに渡している光景を今でも覚えています。

中村 ご近所だったんですね。もしかしたら当時の写真なんかお持ちですか。撮らなかったかなぁ。まさか、こんな有名人になるとは思わなかったでしょうしね。

女性 写真はないですねぇ。やっぱり三人で遊んだのが、ずっと目に焼き付いているんです。私もいまのところ元気なので、せっちゃんも元気でいてほしいと思います。

関戸 ひばりさんと、勢津子さんの七五三の時の写真があるんですよ。それ、実家にあったんですけど、どっかいっちゃったみたいなんです。「平井写真館」にはあるそうですよ。

中村 その写真館はどこにあるんですか。

関戸 根岸橋の「平井写真館」です。昔はね、魚屋さんは仕出しをやっていたんです。結婚式とかでは写真を撮るでしょ。だから魚屋と写真館は接点があったんですよ。ひばりさんと、勢津子さんが両親と一緒に撮影した七五三の写真が、平井写真館にあると聞いています。あの当時は、七五三の写真を撮れる家は少なかったですよ。

男性 松永さんにお聞きしたいです。アテネ劇場というのは元磯子劇場とか、あるいは磯子劇場(のちのアテネ劇場)っていうふうに書いている本が多くみられます。だから私は磯子劇場というのがまずあって、それがのちにアテネ劇場に変わったと思っていたのですが、今日の資料の地図を見ると、昭和40年にアテネ劇場だったのが、42年では磯子劇場と表示されています。ということは、まずアテネ劇場がさきにあって、その後、磯子劇場に変わったと思われますが、いかがでしょうか。

松永 私がアルバイトで入ったのはアテネ劇場で、やめた時もアテネ劇場でした。アテネ劇場がその後、磯子劇場になったという人もいました。だから、アテネ劇場の前が磯子劇場だったのではないと思います。

 それから、アテネ劇場でひばりさんを見たという人は結構多いと思います。ここが最初に出た舞台だという人が多いのですが、現杉田劇場では、最初に出たのは旧杉田劇場だとしているわけで、多分、こちらが正しいんでしょうかね。アテネ劇場の総支配人はアテネで最初に出たと言っていましたけどね。

 長谷鉄工というのは先ほどの小指のない話のように、ちょっと具合の悪いところでした。そこの支配人が「うちが最初に出た」と言っていましたが、今となってはどうだかわかりません。そして、アテネ劇場の前に磯子劇場があったかどうかは、分かりません。

生出 アテネ劇場に売店があったでしょ。あれを経営していたのは村上さんという人で、その人がひばりさんのお母さんと仲良かったという話、知っていますか。

松永 それは知りませんね。

生出 そういう関係で、最初にアテネ劇場に出たと聞いています。

松永 そうですか。私はあまりいい印象がないんですね、ただ怖いだけで(笑)。

中村 旧杉田劇場に出ていた時は「美空ひばり」ではなく、「美空一枝」だったので、ひばりちゃんではありませんね。

生出 そうなんです。加藤和枝で出ていたのね。そのとき、ストリッパーが杉田劇場に出ています。「空ひばり」という名の。「空ひばり」というのは「美空ひばり」みたいでしょ。あのお母さんは芸人を非常に大事にする人。だからお母さんは空ひばりを大事にしたのでしょうね、そしていい芸名だなと思って、それがヒントになったに違いないと。

 そのストリッパーの写真を見たかったら、ここにありますよ。これは昭和26年に出版された『ストリッパーアルバム』という本です。こんなことが書いてあります。「杉田劇場に空ひばりが特別出演をしている…」ってね。

(ここで本のコピーを披露。会場は笑いに包まれる)

中村 どうもありがとうございました。どんどん話題が広がって、最後はこんなことになりましたが、本日は「美空ひばりさんと磯子の劇場」の話で盛り上がり、ひばりさんとのエピソードなどを聞かせていただき、どうもありがとうございました。また次回を開催できるよう、計画をしていきます。ありがとうございました。