磯子区内の神社に関するイイ話

小沢 朗(杉劇アートde伝承プロジェクト調査員)


町を清める「榊神輿」

 横浜市磯子区に旧根岸村の鎮守、根岸八幡神社が鎮座している。村域は東西約三キロ、南北約二キロと広く、現在一部は中区になっている。高さ数十メートルの丘が続き、端は崖となり、かつては少しの平地を隔てて遠浅の海になっていた。崖下に建つ八幡神社の背後には緑豊かな社叢林がある。海上に出現した八幡神を祀ったと由緒を伝えている。

 

 同社の夏祭りには「榊神輿(さかきみこし)」という個性的な神輿が出る。かつては村内の山から榊を集めて神輿を作り、海上渡御も行っていた。昭和三十年代後半、海は埋め立てられ榊神輿の伝統も途切れた。しかし、現中区根岸町の人びとによって昭和六十年に復活し以後三年毎に行われている。平成二十四年には横浜市指定無形民俗文化財になった。

 

 榊神輿とは、縦四メートル、横二メートルの担ぎ棒二本ずつの中央交叉部分に台座を置き、そこに榊を一枝ずつ丁寧に取り付け、高さ三メートル程の円錐形になるよう整えたものだ。重さは四百キロを超える。通常の神輿は神社の社殿を模し華やかな造形・色彩である。一方榊神輿は緑一色で地味に見える。これを補うように担ぎ手の男たちは女物の派手な襦袢をまとい化粧もする。掛声と共に神輿が動くと円錐形の榊が上下に大きく揺れる。

 

 祭当日、神様は神輿に遷って町内を巡る。神道行事では先ず「清め」があり、「祓い」が行われる。榊神輿の製作から渡御の様子を取材させて頂きその実際が良く分かった。

 

 根岸町には一条の滝がある。祭当日の三週間ほど前、この滝壺が高圧の放水で洗浄される。一週間後に2トン車一杯の榊が到着し、清められた滝壺で水を十分に含ませたうえで製作が始まる。その日のうちに形が出来上がり、当日までの一週間毎日早朝から絶え間なく水やりをして鮮度を保つ。祭前夜、神職による御霊入れが行われる。翌朝榊に幾つもの紙垂が取り付けられ準備が完了する。

 

 祭当日は神社でお祓いを受け町内を巡行する。行列は、囃子の車、榊神輿、子供神輿、花山車の順だ。囃子は神輿に先立って笛、太鼓、鉦の音で町を清める。榊神輿が揺れると葉擦れの音がして、これもまた清めになる。行列後部には数人のお掃除隊がつく。榊神輿から落ちた葉などを掃いて清める役だ。

 

 盛夏の一日町内を巡った後、夕方御酒所の前で最後の盛り上がりとなる。かつて榊神輿はこの辺りで海に入ったという。海に穢れを流す、との意味合いもあったようだ。最後に榊は外されて皆が自宅に持ち帰る。

 

 榊神輿の担い手は町内で消防団活動をしている人が多いという。日頃から町の防災を担いつつ、町の安全を祈る祭にも奉仕する。囃子や裏方も町に住む人たちだ。

 

 榊神輿とは珍しいものだが、考えてみれば、榊の枝は日本の祭に欠かせない。古事記にある「天の岩戸伝説」では、隠れた天照大御神を呼び戻そうと神々が集まり神話上初の祭を行った。そのとき祭場の中心に設えられたのが「眞賢木(まさかき)」であった。祭はもともと野外の清浄な場所で行われたものであり、それが常設化されて神社になったという。社殿がない時代では地表に榊を立てて神祭が行われた。榊は常緑樹で生命力の象徴だ。祓の祭具などにも用いられているし、神棚や祭壇になくてはならないものだ。

 

 榊神輿のありようは、祭古来の姿と結び付く、地域の貴重な文化資源なのである。

 

出典:小沢朗「町を清める『榊神輿』」月刊短歌誌『麓』(通巻518号)、麓短歌会*、令和元年10月、P12 

 


*麓短歌会は昭和51年(1976)故・西森南窗(なんそう)が創立。平成15年(2003)より風早康惠主宰。月刊短歌誌『麓』を刊行、東京をはじめ関東関西の全国15支社に於いて月例歌会を開催する。吟行、全国短歌大会等の催しを例年行っている。賛助会員を含め会員数は令和2年現在、約290名。


海辺の神社と山岳信仰

 今から数十年前、海岸は埋め立てられ工場用地になった。それ以前、海辺の村では舟で漁をして暮らしをたてていた。私の住む横浜市磯子区は、その名のとおり海に面した土地であることから、海から神体が流れ着いて神社になったという由緒や、埋立以前にはお祭りで神輿を担いで海に入っていたことが伝えられている。

 そのような海辺の村の神社を管理していたのが、山伏としての活動をしていた修験の寺院であることを知り、意外な取り合わせに興味を引かれた。

 二百年ほど前、江戸時代の終わりごろの地誌『新編武蔵風土記稿』には、村々の神社や寺院についての記載がある。海に面した小高い山にある森浅間神社の項をみると、村の鎮守であり松本村修験権現堂が持つ、とある。

 松本村は神社から数キロメートル離れている。この権現堂は鎌倉扇ヶ谷から移ってきたもので、京都聖護院を本山とする末寺であるという。今でも、森浅間神社の境内には、朝日不動滝があり不動明王が童子像二体を従えて祀られている。不動明王は平安時代初期から密教(真言宗、天台宗など)が盛んになるにつれ尊崇された。紛れもない仏像である。

 

 平安時代中頃、熊野詣が盛んになった。白河上皇の熊野詣の先達を務めた園城寺の僧、増誉はその功績によって洛東に聖護院を賜った。以後同院は熊野をはじめとする全国の霊山で活動していた山伏の組織化に成功、本山派と呼ばれる天台系修験教団を成立させる。江戸時代末までの長い期間、全国の修験者(山伏)を統括してきた。末寺は二万を数えた。修験は古くからある山岳信仰と密教とが習合したもので、それが神社の管理にも携わっていた、ということである。

 森浅間神社は、森公田村、森雑色村、森中原村という三村の鎮守であったが、中原村には熊野社という別の神社があった。この熊野社は隣にある泉蔵院という寺が持っており、これもまた鎌倉から移ってきたもので、本山修験京都聖護院の末寺であった。

 この中原村の泉蔵院と松本村の権現堂とは、同じ修験の寺院として、久良岐郡五十一か村の内、八か村は権現堂が支配し、残りは泉蔵院が支配していたという。

 山伏とは、山に伏して仏道の修行をする人である。熊野、吉野などに始まり、東北の羽黒、関東の日光、中部の富士、白山、中国の伯耆大山、四国の石鎚、九州の阿蘇などが修行道場として栄えていった。一方地域に定住して氏神の別当、加持祈祷、登拝の先達などの活動もするようになった。山伏は霊山高峰に分け入り厳しい修行によって鍛えられた心身と薬草などの知識によって、様々な面で人々に奉仕することができたのだろう。明治より前の約千年間には多様な信仰の様態が存在していたのだ。

 

出典:小沢朗「海辺の神社と山岳信仰」月刊短歌誌『麓』(通巻523号)、麓短歌会、令和2年2月、P13


村の鎮守さま

 

 私の住む横浜市磯子区は人口約十七万人、市南部にあり住宅地が多い。区内に十五の神社があり、それらは全て江戸時代から続いている。そのほとんどが「村の鎮守さま」だ。

 天保の頃(江戸時代後期)、『新編武蔵風土記稿』という地誌が幕府によって編纂された。幕臣たちが手分けして各村を回って取材執筆した。編集部は昌平坂学問所に置かれた。

 この本は良く出来ている。村ごとに村名、地勢、家数、四境の村、土性、田畑、検地歴、領主、小名、山川橋、神社仏閣等のほか特記事項が順を追って客観的に整然と記述されている。どの村の記事を見ても同じような書きぶりであるため、読みやすく、掴みやすく、比較もできる。

 一村につき上記のような十余りの要素が記述されている。神社については村を代表する鎮守から小さな祠に至るまで、社名が書き上げられている。

 例えば「栗木村」(現・磯子区栗木一~三丁目等)を見てみる。    

 山王社…村の中ほどにあり…村民持の鎮守なり。石神社…村の北よりにあり。駒形社…村の北にあり。稲荷社…村の北にあり。御嶽社…村の東にあり。

 「磯子村」(現・磯子区磯子一~八丁目、磯子台等)はどうか。

 山王社…坤(ひつじさる=南西)の方…にあり村内の鎮守なり…。神明社…未の方にあり、小祠。御嶽社…。(略)。第六天社…。稲荷社…。

 現在の横浜市域は、当時の四郡(相模国鎌倉郡、武蔵国久良岐郡・都筑郡・橘樹郡)に属していて、村の数は二百余になる。村々には概ね一村に一社「鎮守」があり、そのほか数社、というのが一般的な様相だ。

 磯子区域には、概ね十五の村があった。そして現在も十五の神社がある。これは偶然の一致だろうか。

 その後の歴史を辿っていくと、風土記稿(江戸時代)の村々にそれぞれ一社ずつあった「鎮守」が現在に続いている傾向が見て取れる。旧磯子村の山王社は日枝大神、旧栗木村の山王社は栗木神社と名前を変えている。江戸時代までは神と仏が習合しており、神社名も仏教色のあるものが通用していた。明治維新で神仏が分離されたので、例えば山王は日枝と改称されることなった。また、その後には村の中で複数の社が集まり一村一社となった。吸収された神社はそれぞれ祭神に加わったり、境内の摂社末社などとして残されることが多かった。そうなると名称はその村名を冠した方が分かりやすい。栗木神社はその例である。田中神社、上中里神社、氷取沢神社も同様だ。これらを含んだ六社には合祀と奉還の歴史をもつが、それは別の機会に紹介したい。

 ところで、私たちは地元の神社を「氏神」と呼ぶこともある。「鎮守」と「氏神」は違うのだろうか。現在、地元の神社はどちらの呼び方もされていて、ほぼ同じ意味に使われている。

しかし歴史的にみると意味合いは少し違う。村の鎮守は村の守り神である。ちなみに城の鎮守、というものもあった。氏神は氏の神様。前回少し触れた古代の氏族ごとの祖先神を祭ったものである。代表的なのは源氏の氏神は八幡神、藤原氏は春日大社である。村単位で考えると、同じ先祖をもつ氏神は複数あったのだが、これが合同していくなどして一つのものとなっていったのだろう、と民俗学者の柳田国男は述べている。

 村の鎮守には、村の長い歴史が刻まれているのである。

 

初出:月刊短歌誌『麓』(通巻507号)、麓短歌会、平成30年12月、P24

この原稿は、初出から一部を加筆修正した。